火照った体を拭きながらふと思いを馳せる。思えばあの頃は色んな事をしたもんだ。友人と商店街を巻き込んでの映画撮影なんてのは文字通りの序の口で、無人島で探偵ごっこをしたり、リアル遭難したり、果ては未来にまで出張したり、殺されかけたり。まさに若さに任せたやりたい放題というやつで、今や大学生となり、そろそろ身の振り方も考えなくてはならない年頃の俺には、もうできやしないことばかりが思い出される。そりゃあ体力的にはまだ全然余裕なのだが………まあ多少の虚勢は含まれているとしても、気持ちの方がストップを掛けてしまう。仕方ないだろう?年を数えることも二十に入ってしまえば、それなりに分別のある考え方をしていないと駄目だろう。それに、なんと言ったって俺は長男なのだ。下は妹一人だし、今後の我が家の行く末は俺の双肩に掛かっているといっても言い過ぎではない。

だからってあの頃が悪いことばかりだったかと言えば、そうでもない。おそらくは誰もが人生の中で三本の指に入るくらい密度の高い時間を送ることになる三年間―――高校生活、で、おそらくは他の誰よりも愉快な経験をしたのは俺だっただろうから。多分、一生モノになるような仲間たちもできた。

付け加えれば、あんまりにも突き抜けた体験のお陰で、ちょっとやそっとのことでは驚かなくなったというのもある。例えばの話だが―――もし今、それなりに大きな地震が起こったって冷静に振舞うことができるだろうし、実家に帰ったときにシャミセンがまた喋るようになっていたって、そりゃあ少しは驚くだろうが、後は普通に対応するだろう。昔話に花を咲かせる、なんてことにもなるかもしれない。だから―――だから。風呂上り、ちょっとビールをひっかけながら髪を乾かしつつテレビのスイッチをつけた時―――

「ねえキョン、子供ができたわ」

―――そんな事を言われても、
少しも驚かないのだってなにぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ!?





<ヴァニラ・プディング・チョコレート>






「あー………ハルヒ、今なんて………いや、そうかこれは夢か」

いかんね、どうも最近疲れ気味なもんで。風呂で寝るとヘタすると死んでしまう危険もあるので注意しなければいけないのだが、寄る年波には勝てないという事かな。体力的にはまだまだ大丈夫、なんて言っておいてなんだが。兎に角早く起きなければ、お湯を吸い込んで咽るなんてベタな真似を晒してしまうことになる。そんなことになればまたハルヒになんと言われるか分かったもんじゃないし―――

「あら、オヒメサマを気取るつもり?それなら目覚めさせてあげないと」

立場が逆になっちゃうけど、なんて、夢の中のハルヒは近付きながら呟いて、おもむろに唇を重ねてきた。ひとしきり咥内を蹂躙された後、名残を惜しむみたいに唇をぺろりと一舐めして、離される。

「どう?目が覚めた?」

いや、やっぱり夢みたいだぞ?この世の物とは思えないほど気持ちがよかったし。

「褒めてもらえるのは嬉しいけど、とりあえず正気に戻りなさい」

言ってもう一度口付けられる。だから、こんなに気持ちいいんだから夢に決まっていると言うのに。今度は一度目は責められてばっかりだったから、今度はこっちから侵入を試みる。やけにリアルな肉の感触が気に掛かるが、まあいいだろう。今は舌に神経を集中させて―――と。

がじ。という音が、いや、音よりも早くその痛みが脳髄を駆け巡った。

「―――痛っっってえ!噛むなハルヒ!」

これは常々注意してきたことではあるがその噛み癖はいい加減直してほしい、こないだなんかスポーツパフォーマンスの授業前の着替えの時に歯型が付いてるのがバレてエラい目に―――って、あれ、夢にしては痛さが妙に感じられるなあ。ふふん、なんて得意気な顔で、仁王立ちしながらこっちを見てくるハルヒの表情もなんだか、夢にしては堂に入りすぎているような。

―――ああ、成る程。つまり、そういうことか。要するにこれは、夢じゃない。

―――ということは、さっきのハルヒの言葉も、夢じゃない。

こんな時に俺に出来ることといったら、冒頭と同じ驚きの声を、もう一度あげる事くらいだった。



何事も形から入るのが俺たちのスタイルだ。だからっていつもコスプレ衣装が準備されているわけではないので、俺の右腕には取調べの鬼≠ニ書かれた腕章が巻かれている。もちろんスーツも着込んでいる。ハルヒはキッチンで調理中だ。その間に俺は机の上に卓上用ライトを設置し、後はあいつを待つだけ。カチンいう音と共にコンロの火が止められ、どうやら小道具は全て揃ったようだ。

「はーい、やっぱ取り調べって言ったらカツ丼よね。ノリが違うわ」

「実際は自費らしいけどな。つうか刑事役の俺にまで作ってきてどうするよ………」

ありがたく頂くが。シンプルな料理ほど作り手のスキルが問われるというが、なんら問題なく仕上げてしまう辺りがハルヒたる所以だろう。

ああ、そういえば―――忘れているかもしれないが、ハルヒといえばあの力。世界を書き換える規格外の心のクレヨン。アレは、今はもう観測されなくなってしまった。使う必要がなくなったのだと、長門から聞いた。その意味を、俺はなんとなく知った気でいる。真実はいつも単純なのだ―――そう、目の前の、非常に食欲をそそる料理のように。

「おいしい?」

「ああ」

まずはふた口、そしてお茶を口に。二人でふう、と一息ついて、俺はロールプレイを開始した。つうか先ほど叫んでからは一応落ち着きを取り戻したかのように見せかけているのだが、本当のところはドキドキモノなのだ。はやる気持ちが抑えきれない。

まずは―――そうだな、ハルヒが正気かどうかを確かめなくては。万が一ハルヒがユカイなオクスリをキめていた場合に備えて。や、そんなことは有り得ないが。

「最初は簡単な質問から行くぞ?いいか」

「望むところよ。どんどん来なさい、黙秘権を存分に活用して裁判を最大限に有利に進めて見せるわ!」

いや、そういうゲームじゃないから。

「お前の名前は?」

「涼しい宮と書いて涼宮ハルヒ。人となりはそうとは限らないけど。下はカタカナよ」

「職業・年齢は」

「大学生、花も恥らう二十歳。お酒は嗜む程度ね」

「住居は」

「都内アパートに下宿中よ。同居人はアンタ」

そう、今俺たちはほぼ同棲状態で―――というか、元々は俺が一人で住んでいたのだが、いつの間にかハルヒが居つきやがったというのが本当のところだ。いくら俺の部屋が大学に近いからといって、問答無用で間借りしに来るなんて、常識はずれもいいところである。一応家賃は半分ずつだし食費もある程度出してくれていて、更に料理までしてもらっているのだから俺には文句は無いのだが。しかし………ふむ、どうやら精神状態に問題はないようだ。

「じゃあ本題に入るぞ。………さっきの発言は本当か」

「さっきの、って?刑事さんがはっきりしてくれないとわからないわ」

「だから、アレだよ。子供が出来たとかなんとかっていう、アレ」

今日の日付を確認しながら言う。多少なりとも期待していたのだが、残念ながら今日はエイプリルフールとは程遠い。ここで「冗談でした〜」なんて発言でも飛び出せば俺の胃痛も治まるのだろうが―――残念ながらそれは無い様だ。何年も付き合っていれば分かることだが、ハルヒは突飛なことは考え付いても、嘘を付くことはしないのだ。

諺なのか訓示なのかよくわからないが、正直者が馬鹿を見る、と言う。ハルヒはその言葉を穿った風に見た場合、そっくりそのまま当てはまるような人物、ということである。バカみたいな出来事、なんて形容は人生で何回も使うことではないのだが、俺たちに限っては使い古してくたびれた挙句にリサイクルしてまた使う、といった感じの馴染み具合なのだ。

核心部にさしかかったのが嬉しいようで、ハルヒはいつもの三倍増しの笑顔で―――しかも驚いたことに、碌でもない事を思いついたときに見せるあの、妙な悪寒の走る笑みではなく、実に魅力的な、それこそ聖母のような―――笑顔で、俺を見つめている。きっかり十回、壁に掛けた時計の秒針が時を刻んだところで、ハルヒはゆっくりと口を開いた。

「本当も本当、大当たり!さっすがキョンよね、ここぞという所でホームラン、サッカーでいうなら開始直後にキーパー薙ぎ倒して稲妻シュートよ!数々の修羅場を潜ってきた私も震えたわね、まさか最初でデキちゃうなんて………ねえキョン、名前はどうする?女の子だったら晴れ≠ヘ入れたいわよね、きっとアタシ似だし。あ、男の子だったらどうしよう、あんたあだ名の方が名前より知られてるもんね。由来もはっきりとわからないんじゃあ可哀想だし、こっちもアタシから取りましょう。それより前に籍を入れないとね。結婚式でお腹が大きいのは、それは微笑ましくはあるけどやっぱり一番キレイな格好でいたいし、早めに済ませておかないと。大丈夫よ、古泉くんってたしかそっちの方向にもつてがあったし。皆にも早く連絡してあげないとね。妹ちゃんも喜ぶわよ、あの子妹欲しがってたし。あ、大学は休学しないとどうしようもないわね。そっちの方は後からどうにでもなるし、そんなに重視する項目でもないわ。まあとにかく、さすがキョン、って事よ!」

そして、聖母のような、と形容した俺の感傷をブチ壊すように次々と捲くし立てた。いや、嬉しいのはすごく伝わってくるが。

ここまでやられると、まず妊娠が事実らしいという事に関して驚かなければならなかったはずの俺が、これはもう納得するしかないのだ、という妙な収まり方をしてしまう。事実なんだろう。目出度いし、意味が分からんが嬉しい。実感はまだ無いが。

その後も、やれ既製品のミルクは嫌だ自分であげる、とか、オムツは健康を考えれば布が一番ね、とか、果ては公園デビューの段取りまで考え始めている。俺は取りあえず腰を上げ、テーブルを挟んで向き合っているハルヒの肩に左手を乗せ、右手で頭を撫でる。こうすると興奮していても何故か落ち着かせることができる、というのは、きっと俺の知る限りのハルヒの知人の中で、俺しか知らないことだ。

暫く撫でていると、今後の予定を列挙し終えたのか、それとも今この時がまず大事だと思い当たってくれたのか、口を閉じてくれた。同時に目も閉じて、撫でるたびに気持ち良さそうにくちびるの端がむずむずと動く。こういう仕草はいやらしくなくて、平和な気分で見ていられる。いやいや、こっちまで和んでしまってはミイラ取りが勢い余って即身仏、である。もう少ししたら手を離そう。意志薄弱な俺。

「ふぁ………ねえキョン、これされる度になんだか『いいように扱われてる』って思うんだけど」

「何だよ、気持ちよくないか?」

「いいけど………それとこれとは別問題よ。腕のいい指圧師が国を治めたなんて話は聞いたことが無いもの」

それはなんだかメルヘンチックなお話だな。

それ以上やっていると噛み付かれそうだったので―――とはいえ腹を見せて撫でられていた犬が急に噛み付くだろうかという疑問もあるのだが―――手を離した。そう、俺たちがロールプレイしていたのは犬と飼い主ではなくて、刑事と犯人だったのだ。取調べはまだ中盤にも差し掛かっていない。ズレ落ちた腕章を元に戻して、椅子に座った。

「気を取り直して………だ。妊娠した………ってのが本当だってのはわかった。いや、納得するのが早すぎるし葛藤も少ないと思うんだが、多分それはお前のせいだから気にしないでいい」

お前のせいだから気にしないでいい、というのも妙な言い方だが。

「だが!実感が湧かん。これはひとえに原因≠ェわからんからだ。出来るようなことはしとらんぞ俺は」

これは記憶違いとかそういうレベルの問題ではない。大切なことだからちゃんと覚えている。朝顔を洗わずに出かけることが無いのと同じだ。

「なによ、出来る事なんていっぱいしてるじゃない。最近は毎晩、そういえば昨日ははげしもがっ」

「それ以上は言わなくていい………そうじゃない、ゴムしてたろうが!ゴムを!」

ゴム。今度産む、とも言う。今はその洒落が、文字通り洒落になっていないのだが。

俺は貞操観念がそれなりに高い男だと、自分で勝手に思っている。だからハルヒがウチでいきなり下宿を始めるまでは、事実上の恋人関係であったにもかかわらず、ソウイウコトはしていなかった。まあそれも同居フラグなんてワケのわからないもので粉々に粉砕されて、なし崩しにイタしてしまったわけだが―――それでも貞操観念の、バラバラになった一欠けらぐらいは残っていたんだろう、ゴムは欠かしたことが無い。それはまさにこんな事態を避けるためだったはずなのだが。

「うふ♪」

「うふ♪じゃねえ!誤魔化されるか!」

「わかったわよ………先に言っとくけど、間違いなくアンタの子だからね。わかってるでしょうけど」

「そりゃあそうだ。他人なんて物理的に有り得ない」

妊娠何ヶ月とかいう逆算も、見た目から出来ないことはないわけで。出来ているとして、長く見て四ヶ月、普通で三ヶ月という所だろう。それはハルヒとの同棲生活に入って少なくとも半年経っている今から考えれば、俺である可能性が高い。それは、俺たちの関係を知っているだけ≠フ他人からでも推測できることだ。だが物理的に―――というのは、もっと明確な根拠から放たれる言葉であるべきで、事実俺たちはそれに値する証拠を持っている。

要するに、俺たちは片時も離れていなかったのだ。

元々それは意図したことではなかったのだが、結局そうなってしまったのなら関係ないことだ。その偶然を引き起こしたのは、そもそもウチの大学が―――言い忘れていたが俺とハルヒは同じ大学に通っている―――相当にフレキシブルな授業選択をさせていた、という所にある。

傾向としては文系だった俺は、そう大して悩む事無く安易に文学部を選択したのだが、ハルヒもそこにいたというだけの事だ。そうなれば、始めは誰でも知り合いのいない大学生の事だ。知り合いと相談して、取る授業、入るサークル、その他諸々決める。で、気付けば同じ授業を取っていて、離れる時がそれこそお花摘みの時しかなかった、とそういうわけだ。簡単な話だな。

「もちろん精神的にも有り得ん。だからこそわからんのだ」

「はあ………あんたは本当に肝心なことは忘れちゃうのね。あたしたちが始めてキスした時のことも覚えてなかったじゃない」

それは色々と都合があるんだから、俺のせいじゃない。俺にとっちゃあ最初はあの閉鎖空間なのだから、聞かれて日付を間違えても仕方ないだろう。一応は現実世界ではないのだから、夢の中でしたようなものなんだろうが。夢の中。

というか、大事なのはそこじゃない。忘れている、とハルヒは言ったのだ。

「これ」

ハルヒはポケットから何か、小さな丸い物を取り出す。元々準備してあったらしい。
ヒモ付きの………五円玉?

「やっぱね、ハジメテの時って特別じゃない?どうしても、遮る物とか無しでしたかったのよね。だから、掛けちゃった。

催眠術」



うわあ、

お茶目だ―――――――――



「―――じゃねえ!済むかそれで!それじゃ何か、俺は記憶の無いままにな、なか、なかだ………」

「中田?あの人は放浪して何を見つける気なのかしら。男色の気は最初からあったみたいだけど」

「ちげえよ!こっちはその気もねえのに子供作っちまってんだから!いや、子供ができたことはいい、そりゃ問題ないんだが………」

記憶が、無い。そのときの記憶が。今の御時世性風俗なんかどうなっているのかとんと分からないが、俺はその時のことくらいは覚えていたかったのだ。男として、伴侶として、そして―――その、父親として。そりゃ意識して作る人もいれば、そうでない人もいるだろうが、なんとなく俺とハルヒは後者になるんだろうなとは思っていたんだが、それでもやっぱり、記憶が無い。それは大きかった。それはこれからの障害にはなりえない、これからお腹が大きくなってしまえば取れてしまうような、本当に僅かな小骨だったのだが、些細な痛みでも、その時は痛みなのだ。

ああ、ちくしょう、どんな感触なんだ遮る物が無いってのは―――まあ、結局はそれが大きな悩みの原因だった。笑え。

ハルヒは何を思ったか、先ほどの五円玉を掲げて、俺の目の前で揺らし始めた。

「記憶がもどーる、記憶がもどーる………」

うわ、こいつまた催眠術使う気だよおい!つうかそんな事で思い出せれば苦労は………

そう思った刹那、網膜に強烈なビジョンが重なり、脳髄に鮮烈な感覚が走った。うわ、ちょ、エロ!ハルヒがすごいエロい!いつも見てることなのだが、シラフの時にはこれはまた、こう。視界を下に移すと、成る程確かに生である。どうやらハルヒの催眠術は人を完全に操るようなモノではなく、一部の感覚をマスキングする類だったらしい。見覚えのある光景、確かに俺はハジメテのことははっきりと覚えているが、そこに感覚が上書きされていくような感触。

「思い出した?じゃあ問題ないわね」

「どうして得意気なんだよ………」

いや、まあもういいんだけど。思い出したし。というわけで、俺は正真正銘、父親になったのだった。



あまりにあっさり納得した俺に違和感を持つ人もいるのだろうか?言っておいた筈なんだがな、「ちょっとやそっとのことでは驚かない」。身に覚えの無い子供が出来たといわれたら驚きもするが、それが自分の子供であるという明確な証拠と記憶が揃ったなら全然問題ないのだ。今や俺も立派な成人、高校生の時とは度量が違うぜ。

ああ、特に役に立たなかった取調べ用のコスプレはもう脱いでしまった。カツ丼は二人とも食ったが。

この部屋にはベッドが一つしかない―――当たり前だ、元々一人で住むつもりで借りたんだから。当然一人分のスペースは少なくなるし、なんて言ったって今は人がまた一人増えた事になるのだ。
狭いったらありゃしねえ。それが不満かと言われたら、答えには迷うところだけどな。大きいベッドを買えば解決する、些細な問題だ。

その小さなベッドの上にもたれるようにして座って、これからどうするかを少し考えている。あんまり真剣に考えるのは苦手なので、気晴らしに、俺にもたれるようにして抱きかかえられているハルヒを覗き込んでみた。当然風呂から出ればパジャマ姿で、少しだけ開いた胸元が普通よりも血色がいいのが分かる。見ているだけでは難なので揉んでみる。柔らかい。

ハルヒはいつの間に買っていたのか、いわゆる一つのたまひよを読んでいる。予習らしいが、この体勢も子供を抱くための予行練習なんていうのは、少しムリヤリだと思うね俺は。

「明日、何限からだったっけな」

「三限からでしょ、今日はゆっくりできるわ。もう今学期も中盤なんだから時間割くらい覚えなさいよ」

「いや、いつも同行してる人間がいるとどうしてもなあ」

入学当初からそうだったし、いまさら覚える気も無い。多分一人で大学に行こうものなら、どの教室に入ったものかと迷ってしまうこと請け合いだ。以前古泉の大学に潜入捜査(ハルヒ・談)を行った時以外には、他の大学の事は分からないのだが、ウチの大学の教室配置は無駄にややこしい。シンメトリーにするのは外観も耐震構造上も都合がいいのだろうが、それが過ぎると方向感覚が狂ってしまうのだ。

やっぱり柔らかいので、もう片方の手も胸に当てた。ただしこっちは動かさず、包み込むようにするだけ。偉い人も言っていたのだ、左手は添えるだけ、と。

「しかしそうか、昼からだったか。それならまだ寝なくてもいいな」

「逆算して寝る時間を決めるのも良くないと思うわ」

「お前の癖が移っただけだがな。寝るのがもったいないとか子供の発想だろう」

「いいじゃない、もったいないの精神は世界に広がるのよ」

「あー、こないだの電車の中の広告な。ああいうのこそ胡散臭さの頂点だ」

正確にはローマ字表記みたいだが、テレビの中以外で外国人が使ってるのを見たことが無いからな。ウチの大学はそれなりに外国人が多いので、触れ合う機会もそれなりだ。言葉と外見の壁をなんとか回避して付き合ってみて分かったことが、俺の知り合いの数人―――名前は名誉のために伏せるが、軍艦のような名前のヤツを筆頭に―――の方が、よっぽど常軌を逸していた、という事だ。誇れることなのだろうか。

軽い方とはいえ、ずっと乗せていると体も少し疲れてくる。お返しに顎を肩に乗せた。フローラルミントの香り、と言いたい所だが俺はフローラルミントがどんな匂いなのか知らないので、いい匂いがする、ということでお茶を濁させてもらう。

「あれ、シャンプー変えたか?匂いが違う」

「よくわかったわね、そんなに変わってる?」

「んー、こっちの方が好きだな」

答えになっていないが、

「そう。じゃあこれからもコレにしましょ」

ご満足はして頂けたようだ。頼むぜ、と言った後は、話題も無くなったのでお喋りは小休止。思うに、親しさの度合いというのは、こういう喋らない状況が平気かどうかで決まるのだ。で、俺たちは全然平気だ。

さっきから胸をさわり続けたお陰で、微妙に掌に当たる凸的なナニがアレしているが、ハルヒは大して反応をしないし、俺もそれを求めるようなさわり方はしない。今はそれよりまったりしたい気分なのだ。それは片方がそうでなければ均衡が破られてしまうのだが、今日は偶々一緒の気分だったらしい。

丁度今の体勢だと視点の対角線上にあるテレビは、カウントダウン型の音楽番組を放送している。
知らないのばかりだが、興味の薄くなった物を無理に知る必要は無いし。それに今の生活に背景音楽は必要ないからな。俺の上にいるボーカルの声がでか過ぎて、どんな歌も聞こえなくなっちまうだろう。

かちん、こちん、と時計が時を刻む。いつもよりその間隔が長く感じるのは、状況に和み過ぎているからだろうか。妊娠発覚直後にこの落ち着きようはどうかと思うがね、俺は。実を言ってしまえば、今後の身の振り方も、もう決めてしまっているのだが。

「ねえ、キョン」

「おう、どうした」

「怒ってる?勝手にあんなことしちゃって、こんな事になって」

そんな、思いもよらないことを訊いてきた。いや、一般的には普通なのかなこういう感覚は。どうやら高校の三年間で、俺は定規では図れないような精神構造になってしまったらしい。

「怒ってるように見えるか?」

「全然。でも普通は怒るものだと思うわ」

「そうなのかね。俺は俺の気持ちしかわからんが」

当然ハルヒの気持ちも分からん。分かってしまったら面白くないからな。人の気持ちが分かるなんていうやつは只の阿呆だろう。それか傲慢なヤツか、それじゃなきゃエスパーだ。

「………バッグ………」

「え、何?」

「いや、なんでもない」

脳裏に浮かんだ、下半身黒スパッツ上半身裸の不健康そうな男の映像を振り払った。あの人は何かの罰ゲームで命を落としそうな気がする。

「とにかく、怒ってない。むしろ嬉しいかな」

「でも、人生設計が大分狂っちゃうわよ?」

またも、らしくない返しだ。後ろ向きというか、一般的過ぎるというか。が、ハルヒは俺がどう答えるかなんて分かって訊いているんだろう。要するにイニシエーションだな、これは。プロポーズとも言える。ハルヒは俺の気持ちなんぞお見通しなのだ。だから正直に答えれば、それが正解。

「俺は出世欲とかそういうのが薄いタイプだからな、金への執着も薄いし。取りあえずはそれなりに暮らしていければそれでいいんだ。そりゃ実家の事を考えりゃ少しは稼がないといかんが、二人で考えればどうにかなるだろ。いざとなりゃ頼れる仲間もいるしな」

なんとも情けない告白だが、嘘を吐いても仕方が無い。それに大部分ハルヒと俺の傾向は被っているし。

「それに、人生設計なんて大それた物俺にはないよ。あるとしたらお前と居ることくらい」

多分明日この台詞を思い出したらクサ過ぎて死ねそうだが、もし今の光景を記録されていてそのビデオで強請られたら応じてしまいそうな程だが、繰り返すが嘘を言っても意味が無い。だからできるだけ明瞭な言葉にして話す。

「そう、それなら全然大丈夫ね」

そう言って、一時間ぶりに軽く口付けた。ご褒美でも貰ったみたいだ。

「で、これからどうするの?アタシは休学は確実だけど」

「ん、学校辞める。そんで働く」

「就職が楽になったって言っても、大学中退じゃなかなか厳しいんじゃない?」

全く心配していない口調だな。じゃあ俺もそれに応えないといけない。

「大丈夫だ、アテがある」

蛇の道は蛇、さっきハルヒが風呂に入っている間に、未来の朝比奈さんと連絡を取ったのだ。今後成長する企業で現在人手の足りていないところ。できればパソコン関係で―――というのは、高校時代からのパソコン使用暦と、家にいても作業が出来る事を考慮してのことだ。とにかくそういう条件でアタリを付けてもらった。散々未来のために働かされたのだから、これくらいは報酬として当然だろう?

朝比奈さんの明るい声から判断するに、多分あっちの未来の俺もその職場で働いているんだろう。結局のところ辻褄は合うのだ。………電話口の向こう側で俺の声が聞こえた気がするのは、多分気のせい。

「そう、やっぱり全然大丈夫なのね」

「そういうことだ」

きっとハードデイズ・ナイトみたいな気持ちで働くことになるんだろう。所帯を持っていなかった時には分からないんだろうな、ああいうのは。

「馬車馬のように働いてね」

「そのくらいに気合は入れるけどさ、せめて人間扱いしてくれよ。丸太のように寝るなんてのは嫌だぜ」

「じゃあおしどり夫婦っていうのも駄目?」

「や、それならいいか」

むしろ望むところだな。付かず離れずが恋の術らしいが、俺たちにはそんなの無理だからな。一般人に通用するから一般論という。それなら俺たちに通じるわけがないだろう?だから。

「寝るか」

「そうね」

そのまま眠りについた。



その日、やけにはっきりした、それでいてぼんやりとした、何とも言えない夢を見た。舞台がこの部屋なのかそうじゃないかは知らないが、俺とハルヒともう一人。………いや、双子だったかもしれない。大変だな、その時は。俺は毎日犬のように働いているんだろう。もちろんハルヒだってそのまま主婦で納まるタマじゃないから、毎日がドタバタの連続だ。苦労もあるだろう、辛い事だって。それでも、毎日笑っていられるだろうという確信は、揺るがないのだった。

ハルヒのあの力は無くなってしまったけれど、そんな物なくたって望む世界は作っていける。なぜなら、今ハルヒも、俺と同じ夢を見ているに違いないのだから―――。
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