普段の自分の表情というのは、案外見慣れていないものだ。鏡を見るときにはそれなりに締まった顔をしようとしてしまうし、街中にそれほど鏡が溢れているわけでもない。だからこそ、ふと自分の顔が鏡に映りこんだり、不意に撮られた写真を見たときなんかに、自分の顔に違和感を持ったりするのは誰でもあることだと思う。

さて。今、俺の正面には―――客観的な見方をするのなら、真下には―――自分の顔が、というか体がある。もちろんこの部屋には巨大な鏡が備え付けられているわけでもないし、まさか自分のポスターを飾るほどにナルシストなワケもない。

さて、自分の―――今度は正真正銘、自分の体を見てみる。おや、なんだか見慣れない柄の服を着ているな、まるでこの部屋の天井の柄そのままじゃないか。ついでに言えば、足は地面から離れているし、というかむしろ天井に平行に浮いているし。

まあ、要するに。



おお おれよ しんでしまうとはなさけない!





<ハム・ハレルヤ>






(………息はしてるんだな。一応生きてるのか)

自分の顔を間近で見るなんてのは、あまり気持ちのいいものではないのだが。昨日から続いていた熱は既に下がっている様子で、この間晴奈と一緒に買い換えた枕のお陰もあって、すやすやと健やかな寝顔を見せている。この調子なら会社にも行けたかもしれないのに、この状態ではどうしようもない。なんせモノに触れられないのだから、仕事は愚かパソコンの起動すら出来ないのである。看病すると言って聞かなかった二人を後ろ髪を引かれる思いで断ったのは、正しい判断だったが。

その内どうにかなるだろう、と楽観的に結論付けて、今度は原因を考えてみる事にする。

(熱―――は関係ないよな。ぜんぜん平気そうだし。高校時分ならハルヒのせいだって思ったんだろうが、もう力は無くなってるハズだし、そうなると本当にただの幽体離脱か?)

ハルヒに関しては長門に聞いているので、全面的に信頼してもいいだろう。それだと原因がさっぱり分からなくなるが、世の中おかしなことだらけだというのも間違いのない事実だ。思いつきで、自分の体と自分を重ねてみる―――が、そんな事で戻るなんて簡単な話ではないようだ。

ぷかぷかと浮かびながら、壁に腕を突っ込んでみる。埋め込まれたようになって、たやすく貫通してしまった。これは本格的に幽霊だな―――そのまま壁を突き抜けてみる。隣の部屋に顔と手足だけを出し、胴体は壁に隠したままで「ぬりかべ」と呟いてみた。死にたくなった。似たような状況だが。

(はあ………解決策が無い以上は、ここにいたってどうしようもないな。ちょっと出かけるか)

ここ二日はマトモに動けなかったことだしな。折角だから空を飛んでいこうかと天井を通り抜けるとき、机の上に置かれた本が目に入った。





(わはは、人がゴミのようだぜ)

地上から五十メートルくらい、大抵の建物は俺よりも下にある。鳥たちは俺に気づく事も無く羽ばたいていくが、その気になれば俺の方が早い。空気抵抗がない分こちらの方が有利だしな。

今日は突き抜けるようないい天気で、休日だったらハイキングにでも行きたくなるような陽気だ。これだけ上空だと風もさぞ強いのだろうが、それすら体を通り抜けていくので全く持って快適だ。飛んでいる時に体感速度が遅く感じられるのは難点だが。

さあ、これからどうしたものか。会社に行った所で出来る事は無いし、ハルヒは今日と明日の二日間、出張で隣の県にまで出かけている。今までは何かとセット感覚で扱われていて、遠出する時もツーマンセルだった。それに反発したハルヒの意見が通った格好だが、さて。覗き見気分で観察してみたいところだが、飛んで行くといっても数時間は掛かってしまうし―――。

キュン、という音が響いた。





(うおわっ、なんだこりゃあ)

耳元を何かが高速で通り過ぎたような音の後。目の前の景色が突然に変わっていた。
シンプルで主張の少ない装飾のされた廊下、綺麗に磨かれた窓、一定間隔で配置された扉。これはホテルの廊下だろうか。通りかかった従業員の名札を見てみると、どこかで見たような名前が書いてあった。これは―――確か、ハルヒの泊まる予定のホテル。ということは。真後ろにある扉を通り抜けてみる。二重に掛けられた鍵も俺には関係ない。

ユニットバスの扉の横を通り部屋の奥に入ると、シングルベッドの上、やはりそこにはスーツ姿のハルヒがいた。むすっとした顔で携帯電話を見つめている。仕事中はいつも後ろでまとめている髪も今は解かれている―――いつも休憩時間でも縛ったままにしているから、今日の分の仕事は終わったのだろうか。テーブルの上には書類が散らばっていた。

しかし、どうしてああも不機嫌そうにしているのだろうか。まるで携帯を呪い殺さんとしているかのようだ。

「もうっ、何で電話かけてこないのよ………六時間くらい話してないじゃないの。離れてる時は三時間おきに連絡、って暗黙の了解があるでしょ、キョン………」

(そんな決まり知らねえよ、っていうか暗黙じゃわかんねえだろうが)

「こっちから掛けたらなんだか寂しがってるみたいだし………」

(いや、寂しがってんだろ)

「まだ寝込んでるなら起こしちゃったら悪いし………はぁ、早く元気になって欲しいし、おみやげにまむしドリンクでも買って帰ろっかな」

(元気の意味が違うぞおい)

ぽい、と携帯電話をベッドの端に投げ、ぼふりと体を投げ出す。抱いている枕はホテルの備え付けではなく、ハルヒが高校のときから使い続けているものだ。何度も洗って干されているせいで色は褪せてしまっているが、アレでないと眠れないのだという。夢見がいいのだそうだ。

「あー、座りっぱなしで体中痛い………マッサージ頼もうかしら………」

寝転んだまま電話帳を手に取る。俺も一緒に眺めてみる。一回四千円也(税込)。

「高いわ」

(高いな)

夫婦的シンクロ。相場を知らないからよく分からないが、この値段なら俺も我慢してしまうだろう。元手のいらない商売なんだからもっと安くすればいいだろう、なんて言ったら本職の人に怒られてしまうだろうな。こっちは肩揉み程度しか出来ないのだから、あまり贅沢は言えない。うんざりした顔と共に投げ出された電話帳が、床に落ちて音を立てた。

「そうね、帰ったらキョンにマッサージ仕込みましょ。夫婦でマッサージなんてちょっといいわよね」

(頑張らせていただきます………お前も勉強しろよ?)

「あたしは愛情でカバーすればいいか」

(うっわ卑怯くせえ)

とはいえこの状態だとマッサージも出来ないのだが。ハルヒに触ってみようとするが、これまた見事にすり抜けた。今日中には戻って欲しいものだ、晴奈はあと数時間で帰ってきてしまうし、眠ったままで起きてこない俺を見つけたら大騒ぎだろう。

さて、そろそろ自宅に戻ろうか。場所を意識すれば自由に移動できるみたいだし、何か変化が起きているかも知れない。案外近くに寄ったら簡単に体に入れるようになっているかもしれないしな………ぱちっ、という音に目をやると、ハルヒが携帯をまた開いていた。………早く戻って電話してやろうか。

「………早く元気になりなさいよ。ずっとそのままだったら許さないんだから」

許されないのは嫌だな、これから体調管理には気を使うことにしよう。妙にハルヒの顔が赤いもんだから、携帯の画面を見てみると、そこには、今日の朝出かける前に撮ったのであろう俺の寝顔が写っていた。

(うわ、やばい、恥ずかしい)

自分だって携帯にはハルヒと晴奈の写真がそれぞれ入っているが、それでも他人にやられるのは全然違う。うれし恥ずかし、というのはこんなのを言うのだろうか?とりあえずお礼しとくか。

(どーせわかんねえんだろうけどな)

感触も音もないけれど。ちゅっ、という気分でキスをした。

「ふあっ」

(おおっ?想いが伝わったのか?これが愛の力なのか―――?)

俺のほうは全く分からなかったが、これは愛が足りていないという事なのだろうか?幽体離脱して真っ先にハルヒの所に来たんだから十分だと思うんだが、これでもダメなのだろうか。いや、この場合はハルヒが尋常じゃ無いのだということにしておこう―――と脳内(今は無いが)で納得していると―――。

「んんっ、キョン―――」

ちょっと、様子が、おかしいぞと。

やや上方に体をシフトしハルヒの様子を観察する。さっきまでのように携帯を見ているが、顔は赤らんでいて、その右手はタイトスカートの―――!

(しっ、失礼しましたッ―――!)



キョンは にげだした!





やー、もうね、夫婦とはいえ侵入してはいけない部分もあるわけで。さっさと逃げてまいりまして、何故か小学校にいるわけだ。よくあるタイプのコンクリの校舎に、人工芝でない昔ながらのグラウンド。特別なところなんて何一つないな。晴奈が通ってるって以外は。

わーっ、と寒空の下で走り回る子供たち。風の子というか、風そのものだと思う。最近の子供は生意気にも高い服を着ていたりして鼻につくこともしばしばだが、やっぱりこういう所を見ると子供らしくていいなあ、なんて思う俺はオッサンなのだろうか。まだ全然若いのだが。

ま、うちの子が一番かわいいですが。

(せっかく来たんだし、晴奈の様子でも見てくるか)

いくら親とはいえ、平日に勝手に学校に入れば捕まってしまう。世知辛い世の中だが、安全性を考えての事だから仕方がないし、だからこそ今この瞬間の有り難味があるのだ。

教室は、校舎の横から窓に沿って漂っていたら直ぐに見つかった。ありがとうございましたー、という子供たちの声が聞こえる。どうやら丁度授業が終わったらしい。窓をすり抜け教室へと侵入する。あの人だかりは―――やはり、中心は晴奈か。

「なあなあ、一緒に遊びに行こうぜー」

「ダメよ、ハルっちは私たちと一緒に遊ぶんだからっ」

「女子うるせーよ。お前らいつも遊んでるじゃんか」

「ハルっちは男子なんかに興味ないのよ、ねー」

さて、大人気のわが娘である。思春期の懊悩によりひねくれてしまったハルヒも、それ以前はこんな風にクラスの中心にいたのだろう。願わくばこのまま育ってほしいが、男子連中はどっか行け。と、喧騒の中にあって沈黙を保っていた晴奈が、重い腰を上げた。

「じゃあ男子、これからわたしが言うものを持ってきたら遊んだげるわ。メモ取っときなさいよ、アンタはアクアヴィタエ、アンタはエリクシール、アンタはポリウォーター、潤滑剤じゃないやつね。ホラホラ、行ってきなさい」

うぉーす、と叫んで蜘蛛の子を散らしたように走っていく少年たち。哀れな、キミらがプロポーズしたのはかぐや姫なのだ。つまり親の元に帰って来るということだな、うむ。

「ねえハルっち、さっき言ってたのって何なの?」

「実在すると思われていた物質一覧。絶対持ってこられないからだいじょーぶよ」

あの笑みは悪女の笑みだ。間違いない、この目で何度も見たからな。

「ハルっちほんとに男子と遊ばないわよねー。好きな人とかいない?」

「いるわよそれくらい。写真見せてあげよっか?」

みせてみせてーと群がる女の子たち。………親としては見逃せないシーンが思いがけずに訪れたようだ。いやまあ、なんとなくオチは読めているのだが、一応見ておこうじゃないか。ベタでもいいじゃない、人間だもの。昔の学生なら、写真は学生証とか筆入れに仕舞っておいたのだろうが、今時はやはり携帯電話だ。

「これ、パパとママ。将来は二人と結婚するんだから。法も制定するし。だから今のところの目標は、日本で初めての女性首相ね」

おーっと盛り上がる。晴奈なら本気で何とかしてしまいそうで怖いのだが、予想できていたとはいえ嬉しいものだ。

「でもさー、お父さんとかお母さんって先に死んじゃうよ?その後が寂しいんじゃない?」

「んー。なるべく長生きしてもらうけど、そうなったら守護霊になってもらうから大丈夫よ」

「何それ、昨日貸したマンガ?最後にみかんが出てくるやつ」

「あは、ちょっとそれの影響もあるわねー。あ、もうちょっとで先生戻ってくるわよ」

む、そろそろ授業が始まるか。時間的に最後の授業だろうが、小学生の授業を見ていても面白くはないだろうし。親子の愛も確認したところで一足先に下校させていただくとしよう。帰り際晴奈の頭を撫で、先生がドアを開ける音を背中で聞きながら窓をすり抜けた。結局男子生徒たちは戻ってこなかった。





自宅に戻り、寝室を抜け、自分の体に触れてみる。今度は簡単に入る事が出来た。

さて、今回のことはどう考えるべきか。流石に何度も娘の部屋に侵入するわけにも行かず、机の上の本を確かめる事は出来なかったのだが―――さっきの会話から考えて、どうやら心霊もののようだ。それを読んで晴奈が守護霊の事を思いついたのかもしれないが、ふむ。

一つの仮定として、晴奈にハルヒのかつての能力が遺伝した、という事が挙げられるが、どうにも胡散臭いとも思う。そもそもそんなものならハルヒの母親も能力保持者だった可能性が高いし、そんなお話は聞いた事がない。

ま、今は結論は出ないだろう。長門も古泉も、ハルヒがその実在を願って存在したからこそ、ハルヒの能力を感知する事が出来たのだし。きっと晴奈が能力を持っていたところで、それに気づく事も出来まい。つまり、晴奈であれ心霊であれ、どんなことが原因だったとしても、俺には後だししか出来ないんだな。うん。

だから、今日は考える事をやめておく。
とりあえず、今しなければならない事をすることが先決だろう?

携帯を取り出す。

「………ん、よう。なんだよ、急に電話しちゃ悪いか?風邪治ったぞ、寂しいからさっさと帰って来い―――と。これでいいか、ハルヒ?」

その後―――次の日も向こうで仕事があるにも関わらず、すぐ帰ってくると言い張るハルヒのため、晴奈を連れてホテルまで行ったのは、ありがちな話である。
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