原因不明の霊体験。あれはあれで非常に楽しかったのだが、やはり人との触れ合いなくして人は人足りえないわけで。アレから俺は、生きている事の大切さというのを今更ながらに再認識し、日々を送っていたのだった。
幽体離脱は俺に、当たり前のことがいかに素晴らしいかという事を教えてくれたのだ。さあ、それなら俺は、その当たり前のことに感謝をしなければならない。さしあたっての俺の当然といえば、勿論ハルヒである。手を繋げば血管すら繋がってしまいそうなほどに長い時間を共有してきたパートナーだからこそ、自分の体が当然常に等しくあるものだと錯覚してしまうように、感謝する事を忘れてしまっていたのかもしれない。だから、今日は一つ、その気持ちを形にしようと思うわけだ。
手にしているのは一冊の本。一週間ほどじっくりと読み、晴奈に練習台にもなってもらった。晴奈には何か欲しいものをプレゼントすることで利害が一致している。今日は少し早めに布団に入ってもらう事も、交換条件の一つだ。さすがに娘の前でいちゃつく趣味は無い。
風呂場でドライヤーの音が止まった。そろそろハルヒがこっちに来る頃だ。俺は椅子を一つ運んできて、リビングの中央に据えた。
ハルヒを座らせ、後ろに立つ。風呂上りで赤らんだ首筋やかわいらしいつむじに目を奪われそうになるが、今日の俺のお題は『ご奉仕』である。自分本位な嗜好にうつつを抜かしているわけにもいかないのだ。
「じゃあ、大きく深呼吸してくれ」
「はあ?なんでよ。さっさと始めればいいじゃない」
少しくらいは待つということが出来ないのだろうかこいつは。変な部分で現代っ子ぶりを発揮する。まるで授業中に席に着けないと言われて問題になった生徒のように。随分前に、子、という年では無くなってしまったが。
「お前ね、数学の公式にケチつけるようなヤツがいるか?」
「あたしはつけるわよ、もしかして間違ってたなら大発見じゃない」
「………………………」
こいつの恐ろしいところは、実際にやりかねないところだ。いくら口が達者だからといって有言不実行なら実質無害だが、こいつは独断で教科書に墨を入れかねない。局地的戦時下発生である。
「とにかくだ、深呼吸しないと始まらないんだ。ほれ、大きく息を吸ってー」
「すー」
「吐いてー」
「はー」
譲歩してくれたのか、それとも自分の中で納得できる理由が見つかったのか。意外とすんなり従ってくれた。ハルヒに動きを求めるのはこれが最初で最後だから、ここからは俺の独壇場になる。普段主導権を握られっぱなしなぶん、ここで存分に揉み尽くしてやろうと思う。
まずは、肩と首の間に両手をそれぞれ置く。風呂の熱気冷めやらぬハルヒの体温が伝わってきた。やはり、男と女の体は根本から異なるのだと思う。何度触れてもその柔らかさに驚かされるのだ。だからこそ、慎重に。
「力の加減を………と」
親指に力を込めて、残りの指はそれを支える程度に。肩甲骨の上辺りから首筋まで伸びている筋肉を、ゆっくりと刺激していく。なるべく一箇所に留まらないように、一押しごとに指をずらして三往復。ぐっ、ぐっ、ぐっ。最後に首筋をやや強めに押し込む。
「んはぁ〜っ。なかなかいいじゃない、キョン」
「まだまだ序の口でございます、お客様」
首筋をマッサージする工程に移る。ハルヒの左後方四十五度あたりに移動し、右手は髪の生え際あたり、左手は左肩に添えるだけ。右手で首の肉を摘むように、上下に首の付け根まで揉んでいく。ぐっ、ぐっ、ぐっ。
「そこっ、そこっ………ぅああ、キクわ〜」
「パソコン使ってるとこの辺りが凝るんだな。現代病だぜ」
今度も三往復。右後方に移動し、同じように揉み解す。ぐっ、ぐっ、ぐっ。コツは、同じところをもみ続けないこと、親指を意識する事だな。そろそろ恍惚とし始めたハルヒに達成感を抱きながら、再び真後ろに移動。首のマッサージ最終章である。
「え、また首なの?もう結構すっきりしてるんだけど」
「甘いなハルヒ。考えてもみろ、頭ってのは体でも特に重い部分なんだぜ?それを常に支えてる首筋は、お前が思っている以上に疲れてるんだよ」
「むー、確かにそうかも」
まあ、赤らんだ首筋の誘惑に勝てなかったというのもあるが。概ね本当の事だ。特にコイツの場合は、脳の密度が他人より高いか、もしくは他の何かが入っている可能性すらある。
今度は本当に親指だけ。二つの親指で、首を通る背骨を挟むようにしてぐに、ぐにと強く押し込んでいく。さらに赤らんだ首。血流が良くなっていくのが目に見えるようだ。
「頭の後ろが痺れるわ………」
「よかったな、そうなるヤツはボケにくいんだぜ」
「そんなこと言われなくても、あたしは生涯現役よ」
「ま、その通りだろうな」
最後に、肩と首筋の筋肉が合流するあたりに親指を置き、ぐぅーっ、と体重をかける。指圧の要領だな。それを徐々に横にずらして四回押し込み、肩と首で一本のラインを描くように。
少し緊張している自分に気付いて、ふう、と息を吐き出す。マッサージの時は、相手だけでなく自分もリラックスすることが大切なのだそうだ。こんな人型爆弾を目の前にしてそれは無茶な話だが、長い付き合いで麻痺した神経をフル活用して、心臓のメトロノームの錘を先端にまで持ってくる。
二回肩にラインを描いて、今度は手のひらをその上に優しく走らせた。
「ひゃっ………ちょっ、キョン、くすぐったい」
「我慢しろ。これで筋肉が緩むんだから」
「でも、ひゃっ………」
肩が跳ねるのをそっと留めて、何度か撫でていく。最後には慣れたのか、ハルヒも目を閉じて俺の手の動きに集中してくれたようだ。
「挟むからなー」
次は少し趣向を変えて。腕を百二十度くらいに曲げて、ハルヒの首の両側から挟むようにして肩に置く。指だけだと点でのマッサージしかできないが、人にはそれ以外にも道具として使える部分がいくらでもあるのだ。肘もそうだし、ともすれば足だって。
「踏んで欲しいの?」
「聞き方に他意が感じられるぞ」
古臭い比喩で言えば、ツイストを踊っているように。腕を交互に前後に動かして、首の付け根から肩まで徐々にやっていく。ぐり、ぐり、ぐり。点ではなく面の刺激。血流を良くするのなら、押し出すようなこの動きの方が効果的なように思える。
「ずっと続けてたらやけどしそうね」
………長時間出来ないのが難点だが。力の加減も難しい。そういえば、胸の大きな女性は肩が凝るものだと聞き及んだ事が何度かある。実際、朝比奈さんもその手の悩みには事欠かなかったようだ。という事は、規模こそ異なれ、十分な大きさを誇るハルヒも、肩こりを患っていたりするのだろうか?
「なあ、お前って肩こり持ちだったりするか?」
「なに、そう見える?」
「いや全く」
きっと適度に体に筋肉が着いている事もあるのだろう。撫で肩の人は肩こりになりやすいが、撫で肩の原因が肩の筋肉が未発達である事だという事を考えれば、それは妥当な推論かもしれない。
あと、ストレス無さそうだしなあ。
「………っと、次で最後だな」
ラストはバックトゥザベーシック。普通に肩を揉むように、両手を肩に乗せる。同じように、親指に意識を集めて。ぐっ、ぐっ、ぐっ。
「んっ………ちょっと短くない?あと一時間くらい続けて欲しいわ」
「熟れ過ぎた果実は腐ってるって言われるんだぜ」
「うまくやればおいしいお酒が出来るわね………ふぁ」
比喩に比喩で返すんじゃない、話が進まないだろうが。抗議の意味も込めて少し強めに押し込む。が、ハルヒにはそれが丁度良かったようで、気持ち良さそうに息を吐いている。握らないように、と言っておいたハルヒの手も、今は意識をするまでもなく開ききっていた。顔を前から拝めないのが残念だ。
最後に、猫の手のようにして首の筋肉を親指と残り四本で挟み込み、ぎゅっ、ぎゅっ、と片側ずつ揉んでいった。右左それぞれ三回ずつやった後は、再び手のひらで肩のラインをゆっくり撫でる。さっきはしつこいくらいに反応したのに、今はすっかり夢気分なのかこちらの動きに身を任せている。
おまけとばかりに、小刻みに軽いチョップを肩にそって食らわせて、俺式マッサージは終了だった。
「ふぅ………ご苦労さんハルヒ、これで終りだ。深呼吸するぞ?大きく息を吸って―――おい、聞いてるか、ハルヒ?」
「………………………」
「おーい、ハルヒー?」
「………くぅ………」
「………………………」
まあ、予想はついていたが。やれというからわざわざ図書館まで行ってマッサージを学んだというのに、お礼の一言もないのだった。が、
「くぅ………………」
こんな気持ち良さそうに眠られたら、俺も文句の一言も出ない。背中に担いだ白雪姫の寝息を聞きながら、精々、こいつの、愛情で技術をカバーしているというマッサージを受ける日を楽しみにしようと、そう思った。
幽体離脱は俺に、当たり前のことがいかに素晴らしいかという事を教えてくれたのだ。さあ、それなら俺は、その当たり前のことに感謝をしなければならない。さしあたっての俺の当然といえば、勿論ハルヒである。手を繋げば血管すら繋がってしまいそうなほどに長い時間を共有してきたパートナーだからこそ、自分の体が当然常に等しくあるものだと錯覚してしまうように、感謝する事を忘れてしまっていたのかもしれない。だから、今日は一つ、その気持ちを形にしようと思うわけだ。
手にしているのは一冊の本。一週間ほどじっくりと読み、晴奈に練習台にもなってもらった。晴奈には何か欲しいものをプレゼントすることで利害が一致している。今日は少し早めに布団に入ってもらう事も、交換条件の一つだ。さすがに娘の前でいちゃつく趣味は無い。
風呂場でドライヤーの音が止まった。そろそろハルヒがこっちに来る頃だ。俺は椅子を一つ運んできて、リビングの中央に据えた。
<ラヴィー・ユー>
ハルヒを座らせ、後ろに立つ。風呂上りで赤らんだ首筋やかわいらしいつむじに目を奪われそうになるが、今日の俺のお題は『ご奉仕』である。自分本位な嗜好にうつつを抜かしているわけにもいかないのだ。
「じゃあ、大きく深呼吸してくれ」
「はあ?なんでよ。さっさと始めればいいじゃない」
少しくらいは待つということが出来ないのだろうかこいつは。変な部分で現代っ子ぶりを発揮する。まるで授業中に席に着けないと言われて問題になった生徒のように。随分前に、子、という年では無くなってしまったが。
「お前ね、数学の公式にケチつけるようなヤツがいるか?」
「あたしはつけるわよ、もしかして間違ってたなら大発見じゃない」
「………………………」
こいつの恐ろしいところは、実際にやりかねないところだ。いくら口が達者だからといって有言不実行なら実質無害だが、こいつは独断で教科書に墨を入れかねない。局地的戦時下発生である。
「とにかくだ、深呼吸しないと始まらないんだ。ほれ、大きく息を吸ってー」
「すー」
「吐いてー」
「はー」
譲歩してくれたのか、それとも自分の中で納得できる理由が見つかったのか。意外とすんなり従ってくれた。ハルヒに動きを求めるのはこれが最初で最後だから、ここからは俺の独壇場になる。普段主導権を握られっぱなしなぶん、ここで存分に揉み尽くしてやろうと思う。
まずは、肩と首の間に両手をそれぞれ置く。風呂の熱気冷めやらぬハルヒの体温が伝わってきた。やはり、男と女の体は根本から異なるのだと思う。何度触れてもその柔らかさに驚かされるのだ。だからこそ、慎重に。
「力の加減を………と」
親指に力を込めて、残りの指はそれを支える程度に。肩甲骨の上辺りから首筋まで伸びている筋肉を、ゆっくりと刺激していく。なるべく一箇所に留まらないように、一押しごとに指をずらして三往復。ぐっ、ぐっ、ぐっ。最後に首筋をやや強めに押し込む。
「んはぁ〜っ。なかなかいいじゃない、キョン」
「まだまだ序の口でございます、お客様」
首筋をマッサージする工程に移る。ハルヒの左後方四十五度あたりに移動し、右手は髪の生え際あたり、左手は左肩に添えるだけ。右手で首の肉を摘むように、上下に首の付け根まで揉んでいく。ぐっ、ぐっ、ぐっ。
「そこっ、そこっ………ぅああ、キクわ〜」
「パソコン使ってるとこの辺りが凝るんだな。現代病だぜ」
今度も三往復。右後方に移動し、同じように揉み解す。ぐっ、ぐっ、ぐっ。コツは、同じところをもみ続けないこと、親指を意識する事だな。そろそろ恍惚とし始めたハルヒに達成感を抱きながら、再び真後ろに移動。首のマッサージ最終章である。
「え、また首なの?もう結構すっきりしてるんだけど」
「甘いなハルヒ。考えてもみろ、頭ってのは体でも特に重い部分なんだぜ?それを常に支えてる首筋は、お前が思っている以上に疲れてるんだよ」
「むー、確かにそうかも」
まあ、赤らんだ首筋の誘惑に勝てなかったというのもあるが。概ね本当の事だ。特にコイツの場合は、脳の密度が他人より高いか、もしくは他の何かが入っている可能性すらある。
今度は本当に親指だけ。二つの親指で、首を通る背骨を挟むようにしてぐに、ぐにと強く押し込んでいく。さらに赤らんだ首。血流が良くなっていくのが目に見えるようだ。
「頭の後ろが痺れるわ………」
「よかったな、そうなるヤツはボケにくいんだぜ」
「そんなこと言われなくても、あたしは生涯現役よ」
「ま、その通りだろうな」
最後に、肩と首筋の筋肉が合流するあたりに親指を置き、ぐぅーっ、と体重をかける。指圧の要領だな。それを徐々に横にずらして四回押し込み、肩と首で一本のラインを描くように。
少し緊張している自分に気付いて、ふう、と息を吐き出す。マッサージの時は、相手だけでなく自分もリラックスすることが大切なのだそうだ。こんな人型爆弾を目の前にしてそれは無茶な話だが、長い付き合いで麻痺した神経をフル活用して、心臓のメトロノームの錘を先端にまで持ってくる。
二回肩にラインを描いて、今度は手のひらをその上に優しく走らせた。
「ひゃっ………ちょっ、キョン、くすぐったい」
「我慢しろ。これで筋肉が緩むんだから」
「でも、ひゃっ………」
肩が跳ねるのをそっと留めて、何度か撫でていく。最後には慣れたのか、ハルヒも目を閉じて俺の手の動きに集中してくれたようだ。
「挟むからなー」
次は少し趣向を変えて。腕を百二十度くらいに曲げて、ハルヒの首の両側から挟むようにして肩に置く。指だけだと点でのマッサージしかできないが、人にはそれ以外にも道具として使える部分がいくらでもあるのだ。肘もそうだし、ともすれば足だって。
「踏んで欲しいの?」
「聞き方に他意が感じられるぞ」
古臭い比喩で言えば、ツイストを踊っているように。腕を交互に前後に動かして、首の付け根から肩まで徐々にやっていく。ぐり、ぐり、ぐり。点ではなく面の刺激。血流を良くするのなら、押し出すようなこの動きの方が効果的なように思える。
「ずっと続けてたらやけどしそうね」
………長時間出来ないのが難点だが。力の加減も難しい。そういえば、胸の大きな女性は肩が凝るものだと聞き及んだ事が何度かある。実際、朝比奈さんもその手の悩みには事欠かなかったようだ。という事は、規模こそ異なれ、十分な大きさを誇るハルヒも、肩こりを患っていたりするのだろうか?
「なあ、お前って肩こり持ちだったりするか?」
「なに、そう見える?」
「いや全く」
きっと適度に体に筋肉が着いている事もあるのだろう。撫で肩の人は肩こりになりやすいが、撫で肩の原因が肩の筋肉が未発達である事だという事を考えれば、それは妥当な推論かもしれない。
あと、ストレス無さそうだしなあ。
「………っと、次で最後だな」
ラストはバックトゥザベーシック。普通に肩を揉むように、両手を肩に乗せる。同じように、親指に意識を集めて。ぐっ、ぐっ、ぐっ。
「んっ………ちょっと短くない?あと一時間くらい続けて欲しいわ」
「熟れ過ぎた果実は腐ってるって言われるんだぜ」
「うまくやればおいしいお酒が出来るわね………ふぁ」
比喩に比喩で返すんじゃない、話が進まないだろうが。抗議の意味も込めて少し強めに押し込む。が、ハルヒにはそれが丁度良かったようで、気持ち良さそうに息を吐いている。握らないように、と言っておいたハルヒの手も、今は意識をするまでもなく開ききっていた。顔を前から拝めないのが残念だ。
最後に、猫の手のようにして首の筋肉を親指と残り四本で挟み込み、ぎゅっ、ぎゅっ、と片側ずつ揉んでいった。右左それぞれ三回ずつやった後は、再び手のひらで肩のラインをゆっくり撫でる。さっきはしつこいくらいに反応したのに、今はすっかり夢気分なのかこちらの動きに身を任せている。
おまけとばかりに、小刻みに軽いチョップを肩にそって食らわせて、俺式マッサージは終了だった。
「ふぅ………ご苦労さんハルヒ、これで終りだ。深呼吸するぞ?大きく息を吸って―――おい、聞いてるか、ハルヒ?」
「………………………」
「おーい、ハルヒー?」
「………くぅ………」
「………………………」
まあ、予想はついていたが。やれというからわざわざ図書館まで行ってマッサージを学んだというのに、お礼の一言もないのだった。が、
「くぅ………………」
こんな気持ち良さそうに眠られたら、俺も文句の一言も出ない。背中に担いだ白雪姫の寝息を聞きながら、精々、こいつの、愛情で技術をカバーしているというマッサージを受ける日を楽しみにしようと、そう思った。