一説には、立ち技最強の格闘技は相撲であるという。

重量級の力士のぶちかましは優に一トンを越す破壊力を有し、
連続で繰り出される張り手は前傾姿勢による体重の付加と、手の甲を使うことによる耐久性を兼ね備えている。更に、鍛え抜かれた足腰、短期間での勝負に耐えうる瞬発力、体重による安定感―――これだけの要素を兼ね備えているのだ、それも頷けよう。基本的に体格が大きくなればなるほどに強くなる格闘技の世界において、努力ではどうにもならない縦の大きさとは別に、横の大きさに特化した格技体型を形成したという点も賞賛に値する。

こら、そこ。例の元横綱を思い浮かべるな。あれは常に病み上がりなのだ。
ウォードラゴンの方も禁止。幕内に留まった力士だけ考えて欲しい。

が、あの、普通に生活していたのでは到底形成し得ない体を作るのには、それなりに苦労があるわけである。部屋に入りたて、体も出来ていないペーペーの頃はそれこそ吐きたくなるまで食事をし、しかも吐いてはいけないという地獄の日々を送ることになる。食事の量を増やし、かつ回数を減らすことで効率よく体重を増加させるという話も聞く。それだけ努力が必要なのだ、体を大きくするのには。

ん?どうしていきなり相撲の話なんかするのかって?それはだな―――

「頑張ったなあ、ハルヒ」

「………っ、うるさいっ!!」

誠心誠意殴られた。あ、このパターンって久しぶりじゃないか?





<スリーフェイス>






「俺には全然わからんけどなあ………」

「そんなの毎日会ってるからよ!年々日本とハワイの距離が縮んでることに気付かないのと同じ!」

「ハワイが近くなるのか?それなら大歓迎なんだが」

しかし日本とハワイのどちらがどう歩み寄っているのかも問題か。日本がこれっぽっちも動いていなかったとしたら、ただ少しだけ日本の領土に土地が加わるだけなのだ。いや、国際法なんて全く知らないが。

とにかく。ハルヒがこれだけ憤っているのは当然理由がある。たまに理由もなく怒っているように見える時もあるが、それもツン期だったり月の関係だったりするので、完全に理不尽というわけではないのだ。

やんわり表現すれば、より女性らしくなった。
直接的に表現すれば、太ったらしい。見た目にはわからないが。

ハルヒはかつて無いほどのマジ切れぶりを発揮しながらまくし立てる。

「それより、持ってきたんでしょうね!」

「あー、相当大変だったけどな。まずは懐かしのアブフレックス」

頼まれたものを入れた袋の中から、野球のホームベースを二周りくらい大きくしたようなそれを取り出す。これさえあれば腹筋を効率的に鍛えられるスグレモノである。何度も使っているとゴムがヘタレて来る事ディスクシステムの如し。交換してもらえるかは分からない。いつごろ流行ったんだっけか、忘れてしまった。もしかしたら現存する唯一の現役フレックスかもしれない。

「そしてよりものぐさ使用の、アブトロニックとその類似品」

「類似品………?」

「アブトロニック、アブジムニック、アブソニック。やりすぎると皮膚が火傷する」

「三つの違いは?」

「ありません」

「プログラムの違いくらいは………」

「ありません」

「タイマーとかは?」

「同じです」

同じなんです。どうしてかは知らないが。と、これで四つのダイエット器具が我が家のリビングに大集結している。正味二つだが、どうせダイエット器具なんて眉唾物の宝庫なのだから大して違いは無いだろう。ハルヒはユカイな三つ子の器具を手にとって比べている。多分分解しても違いが分からないだろう。

「まあ、とにかく使ってみるけど………こんな古いダイエット器具、誰から借りてきたのよ?」

「あー、森さんだ。まだいっぱい持ってるから、いるなら取りに来なさいだってさ」

女性もいろいろ大変なのだ。ぶら下がり健康機も持っているというから、もしかしたら只の健康マニアかもしくは通販マニアなのかもしれないが。これですぐに効果が出てくれれば、ハルヒの機嫌も良くなるのだろうが………。

「じゃあ一通り使ってみるわ!これで最盛期にまで戻すわよ!」

「あー、頑張ってくれ。………ところで、ハルヒ」

「………何よ」

「体重計、乗って見せてくれ」

「むっき――――――!」

洗面所から持ってきた鉄製の、家に一つしかないそれを思い切り踏み抜いて、ハルヒはダイエットを開始した。



三日後に俺がリビングで見たものは、無残にも粉々に破壊されたアブシリーズの姿だった。その横ではあはあと息をまいているのは、この間買ってきたばかりの真っ赤なジャージに身を包んだハルヒである。ああもったいない、もしかしたらそれなりに文化的価値があったのかもしれないのに。日本の風俗とか流行とかそんな類の。

「こいつら全然効果無いじゃない!ちっとも変わった気がしないわ!」

「そりゃお前、三日じゃ変わらないだろうよ………。それにだな、俺から見るとお前は十分に細く見えるんだ。それ以上絞るのは難しくないか?」

「そんな筈ないわ、少なくとも一週間前はもっと軽かったんだもの!」

一週間前というと、ダイエットを始める四日前の事か。つうか四日で人がそこまではっきりと太るものなのだろうか。それこそ生理的な何かの影響な気がするが、あんまりそういうことを言うと呆れられてしまうから黙っておこう。下に走りすぎても良くないのだ。良くないんだよ。そうだろ?

「森さんに怒られるな………」

古泉が。

「まあいいか。で、どうすんだよ結局。道具は壊しちまったし、すぐに新しいのを持ってくるのは無理だぞ?」

今日は丁度金曜日で、明日からは休みが続く。森さんと会えるのは最短でも月曜になる。正直、このぴりぴりしたハルヒをそれまで押さえつけておける自信は無い。何かしらダイエットをしていないと、無差別に当り散らし始めるかもしれない。

「そもそも器具に頼ろうと思ったのが間違いなのよ。短期間で結果を出そうなんて甘い考えを持ってたら成功しないわ!」

「お前、さっきと言ってることが………いやナンデモナイデススミマセン」

そんな目で睨まんでも。

「地道に筋力トレーニングを積むしかないわ!筋肉量が増えれば基本的なカロリー消費量も増えるし、後々の事を考えればそれがベストなの!」

「確かにそれなら器具が無くても出来るな。じゃあ今からやるのか?」

「当然!じゃあキョン、腹筋するから足持って」

「あいよ」

仰向けになったハルヒの足を持ち、腹筋のサポート。しかし、見れば見るほどに太ったとは思えないのだが―――サイズに余裕のあるジャージを着ているせいだろうか。筋力トレーニングはダイエットとは違う気もするが気付かない振りをしておこう。

いーち、にー、と一緒にカウントをしていく。流石は基本的に運動万能なハルヒで、すいすいと腹筋を進めていくが―――少し上体の上げ方が足りないのではなかろうか?体を巻きすぎな気もするし、その旨伝えてみる。

「知らないの?腹筋はね、おへその辺りを見るようにしてやると効果的なのよ」

「ほー。それは知らなかったな」

ぺろんとジャージの裾を捲り、効果の程を確かめてみる。
そこには、横に二本うっすらと線の出た、理想的な腹筋が広がっていた。高負荷ゆえに汗ばんでいるところがまたそそられ………いや、トレーニング方法の正しさを如実に表している。

「ちょっと、あんたがおへそ見てどうするの、よっ!」

「うおっ!待て、誤解だ頭突きをするな!」

「うるさい!あんたみたいなのが後々性犯罪で捕まったりするのよ!」

「そんなのと結婚したお前はどうなんだ………だからやめろって!」

「前々から思ってたのよ、あんたはムッツリ過ぎなの!」

失礼な、これでも本能には忠実な方だ。それで浮気する事も無いのだから逆に褒めてもらいたいくらいだと思うのだが、ハルヒの恥ずかし時空は留まるところを知らずに広がり続け、なんとか避けていた頭突きもそろそろ命中しそうに―――

「避けるな―――っ!」

「っっ―――!」

当然、俺なんかよりも基礎能力の高いハルヒの動きを俺が読みきれるはずもなく、しかしわずかながらの反射によって捻られた顔は、悪い事に相手の頭の正面に―――って、このアングルは毎晩見ているような気が―――!

「あっ………」

「あっ………」

どんな拍子だか、いかなる偶然なのか。唇が偶然にも重なってしまった。

いや、有り得ないだろうとか、お約束だとか、そんな意見は全くもって聞こえない。お互いに驚いてしまって動きは完全に止まり、目は見開いたままだ。運動のお陰かはたまた今の状況のためか、火照った頬が更に心を揺れ動かす。こんな時に晴奈が来てくれたら笑って済ませられるのだろうが―――晴奈は友達の家に遊びに行っているのだった。なんというご都合主義か。

そして、流しっぱなしにしていたラジオからワンダフルトゥナイトがゆったりと流れ始めたとき。

「もう辛抱たまんねえ―――!」

「きゃー!」

俺の理性もワンダフルにトゥナイトしたのだった。



「全然ダイエットになって無いわ!」

「運動にはなっただろう………いや、悪い、謝るから睨むな」

昨日のパヤパヤから半日、たまの日曜にもハルヒは不機嫌そうである。まあそりゃ、筋肉トレーニングを俺の衝動で邪魔してしまったのは悪いと思うのだが。またも真っ赤なジャージに身を包み、俺とハルヒはマンションの前に二人で立っていた。昨日と違うところは、場所と、運動靴と、自転車である。もっとも、運動靴なのはハルヒで、自転車を支えているのは俺なのだが。

家での運動が出来ないのなら、外を走ればいいわ、というのが今日のプランであるらしい。

「どの辺まで走るんだ?日本で一番有名なテーマパークくらいまで行くか?」

「ドイツ村?」

「そう、ドイツ村」

知ってる人は知っている村だ。きっと黒ずくめの二人組みを思い出すことだろう。
時刻はそろそろお昼の三時。食べた直後に動くのも良く無いだろうという判断の上での時間帯だが、ハルヒにしてみればじっとしているこの瞬間すら惜しいらしい。纏めた髪を揺らし、その場で足を動かしている。

「ま、走れるだけ走ってから考えるわ!キョン、ちゃんと付いてきなさいよ―――!」

「うわハルヒ、ちょっと飛ばし過ぎだっての!」

これから長距離を走るとは思えないほどのスピードで走り出す。多分1500mを五分切るのではなかろうか。女性としてはかなり早い、というか自転車の俺が追いつけません。一番軽くなっていたギアを四つ目まで上げてハルヒの後を走っていく。春を感じさせる植え込みの緑に、鮮やかな紅が映える。百メートルほど走ったところでやっと隣に並んだ。

「ふぅ………なあ、ペース速くないか?これだとすぐ疲れるぞ」

「もう心も体もおっさんのあんたと一緒にしないでちょうだい。コレくらいならあと三時間は走れるわよ」

それってフルマラソン世界ペースじゃないか?いや、詳しくは知らないが。しかしおっさんとは失礼である、俺はまだ二十台も半ばだし、心だっていつまでもドキドキしていたいんだベイビーベイビーだというのに。

………………………。

「キョン、遅れないでよ!ペースが乱れるわ!」

「………いやすまん、自分で自分の思考に寒気がしてだな」

もう少しばかり成長したいところである。
再び隣に並びなおし、せめてペースメーカーくらいにはなれるように速度を調節する。俺が自転車で走っていることに対して、情け無いとか思う人もいるのだろう。しかし、それには色々と理由があって、確かにハルヒについていくのが厳しいとか、疲れるとか、そんな事も含まれているのだが―――ちゃんとした理由もあるのだ。

「あー、もう春ねー!走ってて気持ちがいいわ」

言ってジャージの上を脱ぐ。下に着ていたのは白地のスウェットで、まるで傍から見れば部活動に精を出している高校生のようだ。幼いという意味ではなく、若々しいという意味で。道行く人々も俺たちを微笑ましそうに見送って、嬉しいやら恥ずかしいやらである。エロい視線を送ってくる男には遠慮なくガンを飛ばしつつ、ジャージを受け取って前の籠に入れる。

「………あ」

「………?なによ?」

「んや、なんでもない」

ポニーテールも解くんですね。確かに風になびいて広がる髪も素晴らしいものではありますが。
しかし揺れる一本の束というものも趣があるのではありますまいか。
少しだけ息の上がり始めたハルヒを引っ張るように半馬身ほど前に出て自転車を走らせる。何も考えずにペースを一定に保てる分、これで楽になるはずだ―――

「あら、勝負する気?キョンの癖に生意気ね!自転車だからって負けないんだから!」

「違うって、これはお前を………ってこら、待てって!」

こちらを抜き去り得意気な笑みを見せ、どどどどと音を立てて駆け抜けていくハルヒ。どうやら、杞憂は現実のものとなりそうである。どんどん小さくなっていくハルヒに照準を合わせ、さてあとどれくらい走ることになるだろうな、と考えた。



「どうよ、オッサンの後ろに乗る気分は?」

「む………、アレは言いすぎだったわよ、謝るわよ」

ならば良し。ふくれっ面を確認して視線を前に戻す。あれから二時間、追いつけばさらにスピードを上げて突き放してくるハルヒは、やっとの事で足を止めた。流石にこいつでも無限器官は備わっていたと見えるが、見上げたスタミナだ。

しかし、走ることだけ考えて帰る時の事を考えていなかった、なんてのはどうかと思うが。
全く、俺が自転車で来ていなかったらどうするつもりだったのだろうか。

「もうちょっとちゃんと捕まれよ」

「嫌よ、あたし汗くさいもの」

「俺は汗の匂い好きだぞ?」

「だ・か・ら・よっ!」

ぐりぐりと脳天をこねられる。恥じらいをいつまでも持つのは、美容にも健康にもいいから喜ばしい事だが。別に性的な嗜好ではないのだから、そこまで恥ずかしがらなくてもいいと思う。

日が沈むのがやっと遅くなり始めた今日この頃。お日様はまだ顔をしっかりと出していて、俺たちの後ろ側からしっかりと照らしてくれている。今日は晴奈が友達の家から帰ってくることだし、夕食の時間までには家に帰りたいところだ。

「どうだ、少しは効果あったか?」

「え、何の?」

何のって。

「お前ね、今日はダイエットのために走ってたんだろ?俺の苦労を無駄にしないでくれよ」

坂道にさしかかって、ギアを一段下げる。少し長めのしんどそうな坂だ。これは運動不足の俺にとってもいいかもしれないな。望んだものではないが。

「あー、そういえばそうだったわね。大丈夫よ、これだけ走れば完璧なプロポーションに戻ってるに決まってるわ!」

「本当かね………ハルヒ、ちっと坂がきつくなるからちゃんと掴まれ。もしくは降りろ」

「はいはい。掴まってください、って素直に言えばいいのよ」

ひどい態度だが、結局素直に従ってくれるところがハルヒらしい。背中に熱さと柔らかさの両方を感じながら、ペダルを踏む足に力を入れた。そろそろ晴奈は帰ってきているだろうか?



「ねえパパ、どうしてママあんなに嬉しそうなの?」

「んー、増えた体重が元に戻ったんだとさ。少し走っただけでどうにかなるもんなのか?」

「あ、もしかしてそれって、洗面所の体重計で計ったの?さっき見に行ったら新しくなってたけど」

「そうそう、ハルヒが踏み壊したから新しいのを買って………って晴奈、お前『見に行った』って言ったか?」

「そうよ。この間メモリがおかしくなってるの見たから、直しとかなきゃって思ってたの。もしかしてママの『体重が増えた』って………」

「あー………」

なんて、ベタなオチ。
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