音漏れの不快感というのは、予測し得ない音のリズムが原因だと思う。

例えば電車の中。高校生がつけているヘッドホンから、しきりにシャカシャカと音が漏れているとしよう。
マナーの観点からしてそれは無作法で、咎められて然るべき物だ。うるさいのは良くない。耳障りな音はそれだけで気分を悪くしてしまう。しかし―――もし、その漏れている音が何の曲か分かったらどうだろうか。他人への迷惑を考えればそりゃあダメだろうが、個人的な視点からすればある程度は平気になってしまう物だと思う。ここでサビに入って、あそこで変調して、最後に一つ音が上がる………それが分かっていれば、それほどの不快感にはならない。どころか、条件さえ揃えばリラックスすらしてしまうかもしれない。

別に俺は、道路工事をリズムに乗せてやれって言っているわけじゃない。いや、そうすれば確実に騒音に関するクレームは減るだろうと思うが、そうじゃないんだ。

要するに―――隣から漏れ来る音のリズムは、確実に俺を眠りに誘っていると、そう言いたいんだな。





<スペシャルオンサンデイ>






―――ああダーリン、信じておくれ―――

そんな歌が聞こえるのは、ただゴツくて格好いいからという理由で買った、安物のヘッドホンから。こもったような音でも、何度も繰り返し聞いた歌詞はきちんと聞き取れるから不思議だ。人の情報処理能力はつくづく優れている物だと思う。結局、電車やバスとかでは音漏れが激しすぎて使えないということが分かってからは、屋内専用になってしまっていたのだけれど―――今この状況を見るに、買った事は悪くなかったようだ。大袈裟なフォルムにグレーの耳当てが、やや栗色がかった髪によく似合っている。これでいつものようにはしゃぎ回っていれば印象も変わるのだろうが、待つのに疲れて眠ってしまった今この時では、正しくフェチズムを満たす外見と装飾のギャップだった。

あいつらが到着するには、あと一時間ほど時間が残されている。
それまで起きていられるかどうか、理性と本能との戦いだな。

少し遠く、テーブルの下に敷かれた座布団に丸まっているシャミセンを見ながら、スローテンポな曲に耳を傾ける。フィルターをかけたように不明瞭な歌に、いつもよりもハスキーさを増した声。歌っている当人もこんな聞き方をされるとは思っていなかったに違いないが、とても魅力的に聞こえているから安心してくれ。シャミセンの尻尾が歌に合わせてリズムを刻んでいるが―――果たして猫の耳の良さはどれほどだったか。曲がいいから、ということにしておこう。

「………ん」

「うおっ………と」

首が傾いてこちらの肩に乗る―――と同時に、歌声も大きく聞こえてくる。

―――ああダーリン、信じておくれ―――

それが物理的な距離のせいなのか、精神的高揚感からなのかは、ロマンチシズムの捕らえるところに任せるとして。とりあえず、肩に触れるヘッドホンが堅い。それなら装着している方は更に痛いような気がするのだが、表情を確認する分にはそんな素振りは無いようで………このあたりは甲斐性としてガマンしておくべきなのだろうと思い直す。

こんな事だから家での立場が低いのかもしれないが。
眠ったはずのシャミセンがいつの間にか、生温い視線をこちらに送っていた。何様だこのぐうたら生物め、お前みたいに気ままに生きていくわけには行かないんだよ。にゃあ、と一鳴きして、再び眠りに落ちたようだ。楽しんでるくせに、なんて聞こえたのは気のせいだと思いたい。

ピリリリリ。
ポケットに入れておいた携帯電話が鳴る。眠りを覚さないように取り出して確認する。古泉からのメール―――今、揃って出発したらしい。何の問題もなければ、言っていた時間通りにうちに着くだろう。果たして起きていられるのかどうか。

「………いてて」

ヘッドホンが更に押し付けられる。どうやら心配しなくても大丈夫そうだな。とりあえず、晴奈にそろそろ帰ってくるようにメールを送っておこうか。後から仲間はずれにされた、なんて文句を言われては堪ったものじゃない。手早く簡潔に姫のご帰還を促し、送信した。

「にゃあ」

「………なんだよ、もう定員オーバーだぞ」

シャミセンが膝の上に飛び乗る。さっきは寝ていた筈なのに、全く変わり身の早いことだ。猫の年齢を人のそれに換算する事に意味は見出せないが、こいつもそろそろいい年だろうに、飼い始めた頃と全然変わらないのはどういうことなのか。隣で眠るこいつの周りには、そんな不思議時空でも展開しているのかと想像してしまう。………ああこら、コードで遊ぶな。

「にゃあ」

にゃあ、じゃない。そんな顔をしても駄目だ。………ひっかいても駄目。膝は貸しといてやるから、そこで大人しくしてなさい。もう一度だけ、にー、と鳴いて、シャミセンは渋々丸くなった。聞分けがいいのはいいことだな。もうほとんど耳にくっついているヘッドホンからは、皆が笑って、皆が幸せ、ほら太陽が昇る―――なんてコーラスが聞こえていて、三毛猫らしく色交じりの尻尾がリズムに乗せて揺れていた。なんだか昔に戻ったような気分になってしまうのは、この後の事を思えば仕方の無い事だろう。

ヘッドホンから漏れる音。決して音の良くないそれを聴いて、買って何年も経っているし、そろそろ買い替え時かもしれないと思った。幸い仕事にはありつけているし、そこまで節制を強いられているわけじゃない。何万もするものとは行かなくても、少しは贅沢をするのもいいかもしれない。―――いや、やっぱりやめとこう。高いと音漏れしないしな。

イヤホンを分け合って聴くのとは違う、片方だけがそれを意識している、一方通行の一体感。
なんだか青臭いそれを、今は甘受しておこう―――。



「………キョン、いい加減起きなさい!」

「んあ………」

夢見心地を叩き起こされた。
………考えるまでも無い、結局は寝てしまったのだ、あの後。一応はあいつらが来るまで起きていようと決めていたのに、そして別に寝不足ではなかったのに―――状況の力というのはげに恐ろしい物である。顔の側面に残る鈍い痺れも、なんら眠りを邪魔する物ではなかったらしい。

「時間は?」

「まだ大丈夫よ。あと五分もしないうちに来るんじゃない?みんな、あんたと違って時間には正確だもの」

俺が遅れたわけじゃ無く、あいつらが早かっただけの筈なんだがな。お前も含めてさ。いつの間にかシャミセンも、目を覚ましてそこらをうろついていた。普段なら動くのも億劫そうにしているんだが、やはり今日は違うか。若かりし日を思い出しているのか?今も昔もぐうたらだったぜ。

ピンポーン、とベルの音。今日は月に一度のSOS団活動日。さて、今日は何をするのか―――

ソファーに投げ出されたヘッドホンからは、耳に残った歌が繰り返していた。
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