その時にはなんでもないと思っていたものが、ある時になって急に良さが分かったり、自分にとって重要なものだったことがわかる、なんてことは大して珍しくない。単純に嗜好が幼かったり、思考が追いついていなかったり、志向が違っていたり―――なんて理由から来るものだからだ。例えば、いくつもある子供向けのアニメ番組、その中で一つだけ主題歌をずっと覚えているとか、父親の数ある説教の中でも殊更に鮮明なものがあるだとか、友人の冗談がやたらと尾を引くとか。逆に、その時はとても重要だと思っていたものが、後から考えてみればそうでもなかったと思う瞬間もある。が、それらに気付くのは時間を置くことでしか不可能なのだ。なぜかって、物事の価値判断に必要な経験は時間を経る事でしか受け入れられないものだから。

―――なんて難しそうな言葉を並べてみたところで、結局は主観なんだから意味は無いんだが。

こんな前置きで話を始めたのは、少し昔のことを思い出してみようと思ったからだ。少しっていうんだから、当然そこまで昔ってわけじゃない。晴奈が生まれて少し経ったくらいの頃、生活の中心が少しずつシフトしていった頃の事。

………あー、固い語りにも飽きてきたことだし、さて、軽い感じで思い出してみようか?






<ターン・ターン・ターン 01>






顔を洗うと言う行為は、第三者の視点を意識していると言う点で、水の持つ冷たさと清らかさとは別の意味での朝の目覚めを意識させてくれる。カニだかお手軽な卵料理だかに似たものが混入された洗顔剤を使って念入りに汚れと眠気を落とし、そう悪くは無いはずの寝相によってかき回された髪の毛を整える。ヨーロッパの人間は数日置きにしか風呂に入らない―――と聞いたときには驚いたものだが、きっと洗顔くらいは毎日やっているんじゃないか。湿気が少ないからという理由で風呂に入らないのは分かるが、朝のスイッチを自分で入れられるほどに器用な人間がそう多いとも思えないのだ………いや、知らないが。

「スクラブ………」
「ん?」
「スクラブ入り、って言いたかったの………?さっきの………」

ああそうだ、と口に出してみたものの、全力で息を吐き出しているドライヤー君のおかげで、相手に伝わるまではいかなかったようだ。変わりに振り返って頷いてみせるが、ハルヒはあまり興味なさそうに俺の隣に並んで歯を磨きだした。ちなみに絶賛育児休暇中、そして眠そうである。しかし、いつも思うのだが―――朝食を食べる前に歯を磨いても無意味ではないだろうか。それを言ったら『気持ちの問題よ』と返されるのは目に見えているのでやめておくが。出かける前にもちゃんと歯を磨いているし、本当に気分の問題なのだろう。

「なにが食べたい?」

朝は会話がやたらと簡潔になる。主語が簡単に神隠しにあってしまうのだ。

「そうだな、コッペパンあたり。知ってるか?ラララコッペパン、って歌があるんだが………」
「食パンしか無いわ。アンタはパンの耳ね」
「歌はスルーかよ。しかも理不尽に厳しい………あ、晴奈はどうしてる?」
「えふぇるふぁ」
「そうか、寝てるか」

今は。最近になってハイハイも堂に入ってきた晴奈だが、そのせいで機動力が上がって困り物なのだ。どれくらい困るかと言うと―――それは、朝食の後にでも。とりあえず今は、隣で歯を磨くのを終え、顔も洗い終えたハルヒの不機嫌さをどうにかしないと。とはいっても、悩むことなんて何も無い。解法はいつもどおり。

おもむろに顔を突き出して、少しだけの朝のキス。

「目は覚めたか、ハルヒ?」
「そうね、おはようキョン。今日もよろしくね」

なんとなく、歯を磨く意味が思い当たったような気がした。明日からは俺も朝に二回磨くことにしよう。



「………………………」

で。朝食を食べ終え、スーツを着込み、出かける準備も万端と言うところなのだが。

「なにそんなところで立ってるのよ?遅刻するわよキョン?」
「いや、わかってるんだけどな………」

朝のニュースも占いのコーナーに突入して、そろそろ車の鍵を回していないとマズい時間帯。それは分かっているんだが―――今日もきっと、この玄関に繋がる角を曲がったところで、俺は足止めされることになるのだ。最近はもうずっとこの調子で、その障害を乗り越えることそれ自体は物理的には簡単なのに、精神的には非常に厳しいのである。日が落ちるまでここで立っているわけにもいかないので、渋々ながら足を進める。

「だからさっさと―――」
「わかった、わかったから………」

そっと角から顔を出し、玄関の前を覗いてみる。そこにはやはり―――いつも通り、晴奈の姿があるのだった。

「やっぱりか」
「なにがやっぱりなのよ?あら、晴奈、お見送りに来たの?いい子ねー、よしよし」

一向に足を進めない俺を通り過ぎて玄関へ向かったハルヒが晴奈を抱き上げる。ここだけ見ればとても幸せな家庭のワンシーンであり、また俺の場合にしたって間違いなく幸せなわけである。まだハイハイを覚えたばかりの、言葉も満足に喋れない子供が父親のために玄関まで見送りに来てくれているのだから。思わず頬も緩むと言うものだ。この瞬間を写真か何かで記録されたら絶対に赤っ恥で………

いや、まあ親馬鹿はそれくらいにしておいて。問題は。

「じゃあキョンにいってらっしゃいって言いましょうねー?いってらっしゃーい!」

晴奈の小さな手をとって、俺のほうに向かってぷらぷらと振ってくれる。俺も一家の柱として仕事に出かけなければならない。ネクタイをもう一度締めなおし、大してこだわりもなく選んだ地味な革靴を履いて―――二人に言ってくると声を掛けて、ドアの取っ手に手を掛け―――

「あ――――――!」

その瞬間、幸せに満ち満ちていた我が家の玄関は、赤子の泣き声に塗りつぶされた。

「きゃっ!ちょっ、ちょっとどうしたのよ晴奈。いきなり泣き出して………」
「ハルヒが抱っこしててくれるなら大丈夫だと思ったんだけどな………同じだったなあ」

いつまでも玄関先で泣かれるとご近所にも目を付けられかねんな、と苦笑いしながらドアの取っ手から手を離す。すると切り裂くような泣き声はたちどころに掻き消え、今度は笑い声に変わるのだ。

「きゃー♪」
「これが文字情報に置き換えられれば語尾に音符でも付いていそうな笑い声を出しおって、ういやつめ」

頭をかいぐりかいぐりしてやると、きゃあきゃあとこれまた天使のような声。我が子ながら本当に可愛いやつだ、目の中に入れても痛くないだろうさ。あんまりにも反応がいいものだから何度もなでなでしていると、つられてハルヒも晴奈の頭を撫で始めた。まるで可愛い盛りの子犬のような扱いだが、うちでは常時こんな感じである。

「かわいいわねえ」
「かわいいなあ」
「子猫百匹分くらいはあるわねえ」
「それに子犬百匹足したぐらいはあるだろうなあ」

なでなで。やわらかな髪の感触も、その下に感じられるほのかな体温も、まるで地上のものとは思えない。

「例えるなら天使ねえ」
「人の心を捉えて離さないのは悪魔的でもあるが」
「でもこんな悪魔なら」
「だまされてもいいよなあ………」

なでなで。晴奈も先ほど号泣していたのをすっかり忘れるかのような安穏とした表情で、目を細めて俺たちのかまいっぷりを楽しんでいるようだ。もうほんと晴奈かわいいよ晴奈。その姿はもはや地上におけるどのような単語、どのような組み合わせを以ってしても伝えきることあたわず、むしろ言葉でどうにかできると考えることすら思い上がりに等しく、例えば形容することによって皮肉にも本質を見失ってしまうという次元ではなく、言葉ではない、ドントシンクジャストフィールを地でいくようなこの心の高ぶりといったら、言語表現という段階をすっとばしてイデアにも匹敵するその御姿は愛情溢れる脊髄反射を常に導いてしまうほどの罪なヤツであってもしや数年後にはグルと呼ばれていまいかと心配になる―――

じゃなくて。落ち着け俺。あとハルヒ。まずは頭を撫でている手を止めて。

「くぅっ………!手を離すことすら拷問だぜっ」
「なによ、そんなに辛いのならずっと撫でてればいいじゃないの。ほら、晴奈もこんなに喜んでるのに」

ええい、こいつは育児休暇で晴奈につきっきりのくせに未だに耐性がつかないのかっ。

「このままだと会社に遅刻するんだよっ!というか既に二分当たり前からハブビーン進行形で遅刻なんだっての!」
「遅刻?遅刻ってなに?っていうかむしろ会社ってなに?」
「トビすぎだお前は―――!」

仕方なく頭を掴んでなんどか揺すってみる。あうあうあうという妙な声の後、やっとハルヒの目の焦点が合い始めた。

「きゃー♪」

晴奈は楽しそうである。ちょいと小粋なアトラクションにでも見えているのだろうか。

「―――はっ!あたしは何を………」
「やっと正気に戻ったかハルヒ。さて、四の五の言わずに時計を見てみろ」
「ん………?時計………?」

胡乱な表情で壁にかかったそれを見る。どこかから電波を受信して自動的に時刻を調節してくれる―――つまり誤差は秒単位でもほとんど存在しない―――そんな少し堅物で便利なヤツなのだが、視線を注ぐハルヒの表情はその便利さを喜ぶどころかむしろ苦々しく思ってすらいそうなもので。

「遅刻じゃないの―――!!!」
「だからさっきからそう言ってんだろうがっ!」
「聞いてないわよ―――!!!」

そりゃ何かハイになりそうなおクスリがキいていそうな表情をしていたからな、お前は。

「とにかく早く行きなさいよっ!ほらほらっ」
「それができたら苦労はしないんだっての………」

片腕で晴奈を抱きながらぐいぐいと俺を押し出そうとするハルヒ。しかしこいつ、正気を取り戻しても、俺がどうして遅刻するハメになっているかどうかには思い至っていないらしい。こちらも逆らう気は無い、どころか出来るならば今すぐにでも車に飛び乗って会社へ向かいたいところなのだが。再びドアの正面に立ち、その取っ手に手を伸ばす―――と、やはり、

「あ―――――――――!」

晴奈の金切り声が。というか泣き声が、この閑静なマンションの一室、ひいては階層全体を覆いつくさんという勢いで響き渡る。通報モノの騒音である。まあ、俺たちにしてみればそれはあたかも天使が頬を膨らませながら可愛らしく吹き鳴らす天上の管楽器といった風情なのだが………いやいや、これではまた元の木阿弥、ゾンビハンタートゥゾンビィである。正気を保たなければ。

とりあえず成すべき事は―――取っ手から手を離すことか。

「きゃあ♪」
「ほんと単純でいいなあ、お前は………」

もう一度取っ手に手を伸ばしてみる。今度は晴奈から目を逸らさずに。五十センチ・三十・十………とカウントが進むにつれ、それに比例して晴奈の瞳にたまる涙の量も増えていく。そして、手を戻すと、その涙はどこかに飛んでいってしまい、今度はどんなカメラにも保存不可能で、どんな芸術家にも模写できない飛び切りの笑顔に取って代わるのである。どうしろと。

「これは………あんた毎日こんな風にして出かけてたの?」
「いや、今日は特に酷いな。いつもなら何度かあやすと泣かなくなるんだが。それに、今日はその泣く規模も桁違いにでかいし」

ハルヒは俺が毎日繰り広げていたこの小さな戦争を知らなかった、ということは、少なくともそこまで大きな声ではなかったのだ。俺はいつも泣く晴奈をあやしては、玄関とリビングを遮る赤ん坊用の柵の向こうに連れて行って、しかしそうして安心して出かけようとした俺の足元にいつの間にか晴奈が再び座っていることに驚き、また泣かれ、そしてあやすという肯定を五・六度繰り返しているのだが。ご近所に見られるとこっぱずかしいという理由で、ハルヒに見送りをしてもらうことはしてもらっていない俺だが、その弊害がこんな形で現れようとは。

「二人して出かけるとでも思ったのかもしれないな。しかしどうしよう、多分この調子だと繰り返しにしかならない気がするんだが………」
「そうね………ふむ………」

考え込んでいる二人を尻目に、晴奈はハルヒの腕から手を伸ばして、俺のネクタイを固結びにする遊びに興じている。下手すると抜けなくなるからやめていただきたい。
と、突然ハルヒが声を上げる。

「ひらめいたっ!」

ぴこーん、と電球が頭上に現れる。

「さすがにその表現は古くないか」
「? 何言ってるのよキョン、その年で早くもボケたの?」
「いや、気にするな―――というか、何気にキツい事を言うな。で、なんなんだよ」
「そうよ、要するに、晴奈は置いてかれるのがいやだったってわけでしょ? それなら発想を逆転するのよ!」

ずびしぃっ、と俺を指差すハルヒ。晴奈の指もそれを追っている。ああもう、かわいいなあ!

「逆転って………置いていかなければ全て解決って事か?ダメだろそれ、今日はよくてもさすがに毎日休むわけにはいかんし」
「ちっちっちっ。それこそ凡人、いえむしろ愚者の発想と言っていいわね。甘いわキョン、全てを根本的に解決する方法が、一つだけあるのよ。つまりね―――

あんたが晴奈を負ぶって仕事すればいいんじゃないの?」
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