仕事。労働、つまり自分の帰属する会社もしくは団体への貢献の対価として賃金を貰うという、社会の仕組み。
労働の対象は、自営業から大小の会社、もしくはお国のためといった風に様々ではあるが、どれにも言えることは、まともに働かなければお給料は貰えないと言う事だろう。働かざるもの食うべからず、という言葉は、今の資本主義社会では、特に成人以上の年代の人にとって見れば、分かりやすいメタファーでもある。国語の問題で言えば一問三点くらいの。それはいちいち口にするまでも無い一般常識であって、だから俺もこれまでせこせこと会社に奉仕し、また会社もそれに見合った御恩を返してくれている。
世の中には株や先物取引などといった、俺がしているような直接的な労働でも奉仕でもなく、頭脳労働によってお金を得る手段や、ギャンブルや宝くじのように、運に任せて楽をして金をもうけるといった手段もあることはある。が、そんなので得たお金では精神的な豊かさは得ることが出来ない―――とかなんとか思っておけば、精神衛生上いいだろうし、自分がそれで失敗することも防げるからな。
まあ要するに、言いたいことは、仕事はマジメにやりましょう、って事だ。赤ん坊負ぶってデスクワーク、なんてダメだと思うんだ。きっと会社側にも迷惑がかかるし。わかったか?ハルヒ。ところでさっきからどこに電話してるんだ?
「………あ、はい、ありがとうございます。それでは………キョン、晴奈連れてってもいいって!」
「………………………」
えー。
「プラクティス!」
受話器を置いてこちらへ向き直り、そしてなぜか仁王立ち。まるで鬼教官かなにかのようだ。
「とりあえず会社側には話をつけておいたわ。中途半端な時間だし、出社も午後からでいいそうよ。だから、これからあたしたちがやるべきことは一つ」
びしぃっ、と晴奈を指差して。当の晴菜はわれ関せずといった感じで、俺の右足を木登りしようとしてもがいている最中だった。
「晴奈をどんな態勢で抱いていれば、仕事に支障なく取り組めるかを調べるのよ!」
「いや、連れてったら支障なく、なんて無理だと思うんだが」
実際、今だってひざのあたりにまで手を伸ばしている木登り晴奈ちゃんのおかげで、まともに動くことすら出来ないのだ。
「支障なく、っていうのはね、キョン。社会の言葉では、いつも通りの結果を出すという意味なのよ。だから、たとえば隕石が落ちてきて周囲が半壊したって、解けた氷の中から怪獣が出てきて玉乗りを仕込めと言われたって、アメリカ大陸を馬で横断するレースに出場することになったって、いつも通りの結果を出していれば支障なく、の範囲なわけよ」
「つまりお前は、そこまでの危機的もしくは異常な状態になっても仕事が完遂できる人間と俺とを同一視しているわけか」
そしてムリっす。晴奈が例に出された天変地異と同じとは言わないが、自分にとって見れば似たようなものだ。どうせ思いっきり構って、構われて、仕事にならないこと請け合いである。それどころか、下手をすれば親馬鹿のレッテルを貼られかねない。勘弁していただきたい。言葉にせず、目でハルヒに訴える。ああハルヒさん、そんな無理難題は出されても困りますよ。宇宙人や未来人にあわせろと言う願いなら、今ならかなえて上げられますから、そっちに変えません?と。遂に腰の辺りまで上り始めた晴奈を抱き上げて、一緒にハルヒのほうを向いてみる。
「晴奈はお父さんと一緒にお仕事したい?」
「あ、きゃあ〜♪」
陥落は一瞬であった。がっくり。
「って言うことで、晴奈を連れて行くのは決まりね。多数決で」
「この家に多数決の原理は通用しなかったはずなのに………」
思い出す。俺はいやだといったのに連休中にいきなり海外旅行をねじ込んだり、俺が見たいと言った映画の隣のホールでやっていた映画に急遽シフトさせられたり。民主的な手段とはかくも残酷なものなのかっ、近代制度恐るべし。こんな風に搾取されていったであろう人々に敬礼。
「じゃ、練習ね!」
「イエッサー」
「きゃー♪」
*
で。なぜか俺はリビングで正座させられており、その目の前にはこれまたなぜかスーツを身にまとったハルヒ。
晴奈はいつも使っている柵つきベッドに寝かされている。
「プラクティス!」
「質問が二つあるのだが」
「何よ、言って御覧なさい?ちなみに、くだらない事だったらこのムチが火を吹くわ」
くだらない質問は駄目なそうなので、とりあえずムチなんて持っていないじゃないか………という視線を送ってみる。するとその考えを最初から見透かしていたかのようにハルヒ、グレーのスーツの袖をめくり、腕を思い切りしならせてから一振りする。
ドギュン、というありえない音が目の前を通り過ぎた。
「水銀を意識するのよ、水銀をね」
「お前はどこの毒手使いだっての………」
「卑怯とは言うまいね」
「言わねーよ!」
反抗しないほうがいい、と言うことは分かったが。
「で、質問は?」
「ああ………まずな、どうして晴奈はあそこにいるのか、と、どうしてお前はスーツ姿なのか」
そもそも晴奈を連れて行くために、お仕事をしやすいお守り体勢を考えるというのが今の目標である。タイトルを付けるとするなら、「せめて、社会人らしく」と言ったところだろうか。色々とやりかたを考案してもらうことはあれ、直接ハルヒがどうこうという問題ではないのだから、スーツなんぞ切る必要は無いのだが。
「だってキョン、あたしがスーツ着てると嬉しそうじゃない」
「え、俺のため?それはどうも申し訳………」
「冗談よ」
「ですよね」
む、と睨まれるが、あまり反抗的な態度をとれば鞭打(べんだ)の餌食だろう。腕を鞭に見立てての攻撃法、それは体表面に痛みを負わせることに特化した格闘術。筋力よりもスピードとしなやかさが要求される技ゆえ、女性にも扱えるというメリットがある。そんなものをどこで習得したのかは知らないが。
「あのね、いくらあんたが『支障なく』仕事を進めたって、いつも通りの分しか消化できないでしょう?で、あんたはいつもなら今はどこにいて、実際は今、どこにいるのよ」
「どこ、って、いつもなら会社に決まってるだろ………ああ、そうか」
つまり、遅刻した分は取り戻しようがないということか。だからハルヒがヘルプに回ってくれると、そういうことらしい。逆に言えば、今は育児休暇で仕事を休んでいるハルヒが出てきて手伝ってくれるのだから、仕事の効率的には二倍になり、午前をまるまるすっぽかしてもノルマを達成できるということだろう。ハルヒもなかなか考えているようだ。
「あたしもそろそろ働きたくてうずうずしてたところだしね。で、晴奈だけど………そうね、例えば、マラソンの練習をするのに、百メートルをマラソンのペースで走る、っていうのはありだとおもう?」
「んー?百メートルを全力で走る、ってのは、筋力とかラストスパートを伸ばす練習になるって聞いた事があるが。それだと足慣らし程度にもならんと思うぞ」
「そうよね。つまり………晴奈を担いでここで練習したところで、実際仕事をする時には参考にならないって事よ!」
「なっ、なんだってー!」
ってー。ってー。ってー。ってー。
大げさなリアクションが空しくリビングに響いた。
「………あー、コホン」
「あ、なかった事にする気ね」
「うるせー、お前も少しは気を使ってだな」
まあいいか。うん、だから、長い間晴奈を背負いながら仕事をするには、今この全く疲れていない状態………と言っても、既にやや疲れてはいるが、でテストをしたって無理だと言うことだな。その言い分はもっともな物で、しかしそれを看過しているハルヒならば解決法も考えているはずなのだが、さてどうなのだろう―――って、あれ?いつの間にか目の前からハルヒが消えていぐんぎゃっ!?
「うおおっ………何だあっ!?」
目をリビングの奥にやろうとしたその瞬間、背中にいきなり重量がかかる。この重さ、いかにもこの身に慣れたもので………
「なにしやがるっ、ハルヒ!」
「解決法よ、解決法。ほら、このまんま立ち上がってみなさい」
「いや、でも重いし………」
「………あんたはあと四回『重い』って言っていいわ」
「それ以上言ったら?」
肩に手が回されるのと同時、首筋に舌が這う。
「………噛み切る」
「ジャックハンマーッ!?」
いくらなんでも頚動脈切断は怖かったので、今度は全精力を持って立ち上がる。正座から立ち上がるのはそれなりに体力を使うものの、やってしまえば後はどうということのない、ありふれた負んぶだ。肩にちゃんと手が回っているのを確認してから、ハルヒの足の下に手を入れて体勢を固定する。それなりに安定したものと言える。
「あはは、高い高い!まるでそびえ立つクソね!」
「軍曹気取りはやめれ。で、どうすんだこれから」
「んー、そうねえ、やっぱり耐久性とか作業のし易さとか見なきゃだし。キッチンに行ってお茶を入れなさい」
「はいはい、了解です軍曹殿」
高いところが好きなのか、テンションが上がっているハルヒを背中にキッチンへ向かう。お茶と言っても、作り置きの普通のお茶ではあまり意味がないだろう。なんせ耐久性やらなにやらを見ようと言うのだから、当然何らかの作業をしなければならないと言うことである。この程度の意思疎通は出来てしかるべき―――というか、できないと怒られるのでとても気を使うのだ。
「んふふ、そうそう、正解ね。この時間に入れるなら優雅に紅茶よ」
「この状況で優雅もクソもないと思うけどな………いてえ!耳を噛むな!せめて甘噛みに!」
どたどたしながらも手を進める。
湯を沸かしながら、もらい物の陶製のポットと、もらい物のティーセットに、これまたもらい物の茶葉。お湯が沸いたらポットとカップにそれを入れ、適度に暖めることも忘れずに。温まったら改めて茶葉を入れ、熱湯を注いだ。ふたを閉めてしばらく待てば、キッチンに紅茶の香りが漂い始める。正しく優雅なひと時である。見た目以外は。
「………ほれ、出来たぞ」
「うん、手順は上出来ね。………でも、ウチにある紅茶ってもらい物ばっかりねえ」
もらえるのだから仕方ないのだと思うが。悪いことでもあるまいし、いつも新鮮な紅茶を楽しむことが出来るのだから感謝しておかなくては。今もまだ、紅茶の求道は遥かかなたまで果てしないのだそうだ。
俺は背負ったまま、ハルヒは背負われたまま、二人で紅茶を飲み干した。首筋に熱い紅茶を落とされて、危うくハルヒを落としそうになったのは、まあ笑い話の一つとしておこう。この噛み跡さえなければ、俺も楽しいだけで済んだのかもしれないが。
*
紅茶も飲み終わり、時間もそろそろ十一時を回ろかというところ。相変わらずハルヒを負ぶったまま、リビングへ帰る。
と、立ち上がった晴奈と目が合った。晴奈の目が細まり、しかし笑っているのではなく、その奥は間違いなく赤く充血していて―――
「うああああ―――ん!」
「おいっ、晴奈、どうしたっ!?」
「ちっ………マズったわね、キッチンで何か口にしたのを気取られたわ!」
「そんな事なのか!」
いやしかし、子供にとっては、食い物の恨みは恐ろしいと言うのは本当の事だからな。確かに失敗だ、どうせ晴奈は飲むことのできない紅茶なんだから、こっちまで持ってきて飲めばよかったのに―――!
「今は悔いてる場合じゃないわ!このまま泣かれ続けたら―――こころが割れちゃうじゃないの!あたしたちの!」
「それはもっともな意見だっ!」
わが子の泣き声とは何故にかくも心を掻き毟るのか!俺はハルヒを背負ったままリビングのテーブルの引き出しを勢い良く開ける。勢いがつきすぎて中身が床に散乱するが、そんなものは後で片付ければいい。むしろ、探し物が見つかることの方が重要だ―――!
「あった!そこ!」
「おいさ!」
背中から伸びた指が示したブツを手に取り、神速で晴奈のベッドへ。泣き声の発信源のそこは、俺たちにとって見れば精神攻撃を常に受けているようなもので、一刻も早く泣き止ませて、できれば笑い声を聞かなければ死んでしまう。
「晴奈、ほらっ!」
「うああ………………あ?」
見事に泣き止んでくれた。恐るべき威力よ、ロリポップ。日本語で言うならペロペロキャンディー。一部日本語じゃないけどな。いかにも子供が喜びそうな毒々しいほどの鮮やかさを持ったそれを、晴奈は買い物の最中に目をつけて泣くほどに欲しがっていたのだ。その時は着色料云々が恐ろしかったので、その辺の心配のないものを後で買ってしまっておいたのだが。
「きゃあ♪」
とりあえず成功だったようで。ハルヒと、それをを負んぶした俺が、泣きながらキャンディを舐める晴菜にニヤケるという図式はその後数分に渡って続いた。
*
で。
「もうさ、負んぶでいいんじゃないのか?適当なイスを使えば問題ないだろうし」
「そうねー、晴奈も鬼かわいかったし」
「鬼かわいかったなー」
人をうっかり殺しかねないような可愛らしさを鬼可愛らしいと言う。生まれて三秒と経っていない表現である。
「でも、まだちょっとだけ時間あるしね。他のやり方も考えて見ましょ」
「ん、まあ、試すくらいなら」
@お姫様だっこ
「これはなかなかじゃない、キョン?なんだかとっても気分がいいわね」
「気分がいいのは喜ばしいが………両手が使えないので」
却下。
Aダッコちゃんスタイル(腕)
「うううう………」
「ぬおおおお………」
体力的に却下。
Bブレーンバスター
「これは何か間違ってる気がするわ」
(………パンチラ天国………)
論理的に却下。
C前から抱きつきスタイル
「これって結構いいんじゃないの?補助具使えば手も自由になるし」
(………電車で売ってるお弁当しか思いつかん………)
倫理的に却下。
………………………。
結局、最初の案どおり。晴奈を俺が負ぶって仕事をすると言う方針で落ち着いた。
ちなみにハルヒが背負えばいいのにと言う意見に対しては、
晴奈はあんたのほうが嬉しそうなんだもの、というある人物の証言を以って返答としておこう。
労働の対象は、自営業から大小の会社、もしくはお国のためといった風に様々ではあるが、どれにも言えることは、まともに働かなければお給料は貰えないと言う事だろう。働かざるもの食うべからず、という言葉は、今の資本主義社会では、特に成人以上の年代の人にとって見れば、分かりやすいメタファーでもある。国語の問題で言えば一問三点くらいの。それはいちいち口にするまでも無い一般常識であって、だから俺もこれまでせこせこと会社に奉仕し、また会社もそれに見合った御恩を返してくれている。
世の中には株や先物取引などといった、俺がしているような直接的な労働でも奉仕でもなく、頭脳労働によってお金を得る手段や、ギャンブルや宝くじのように、運に任せて楽をして金をもうけるといった手段もあることはある。が、そんなので得たお金では精神的な豊かさは得ることが出来ない―――とかなんとか思っておけば、精神衛生上いいだろうし、自分がそれで失敗することも防げるからな。
まあ要するに、言いたいことは、仕事はマジメにやりましょう、って事だ。赤ん坊負ぶってデスクワーク、なんてダメだと思うんだ。きっと会社側にも迷惑がかかるし。わかったか?ハルヒ。ところでさっきからどこに電話してるんだ?
「………あ、はい、ありがとうございます。それでは………キョン、晴奈連れてってもいいって!」
「………………………」
えー。
<ターン・ターン・ターン 02>
「プラクティス!」
受話器を置いてこちらへ向き直り、そしてなぜか仁王立ち。まるで鬼教官かなにかのようだ。
「とりあえず会社側には話をつけておいたわ。中途半端な時間だし、出社も午後からでいいそうよ。だから、これからあたしたちがやるべきことは一つ」
びしぃっ、と晴奈を指差して。当の晴菜はわれ関せずといった感じで、俺の右足を木登りしようとしてもがいている最中だった。
「晴奈をどんな態勢で抱いていれば、仕事に支障なく取り組めるかを調べるのよ!」
「いや、連れてったら支障なく、なんて無理だと思うんだが」
実際、今だってひざのあたりにまで手を伸ばしている木登り晴奈ちゃんのおかげで、まともに動くことすら出来ないのだ。
「支障なく、っていうのはね、キョン。社会の言葉では、いつも通りの結果を出すという意味なのよ。だから、たとえば隕石が落ちてきて周囲が半壊したって、解けた氷の中から怪獣が出てきて玉乗りを仕込めと言われたって、アメリカ大陸を馬で横断するレースに出場することになったって、いつも通りの結果を出していれば支障なく、の範囲なわけよ」
「つまりお前は、そこまでの危機的もしくは異常な状態になっても仕事が完遂できる人間と俺とを同一視しているわけか」
そしてムリっす。晴奈が例に出された天変地異と同じとは言わないが、自分にとって見れば似たようなものだ。どうせ思いっきり構って、構われて、仕事にならないこと請け合いである。それどころか、下手をすれば親馬鹿のレッテルを貼られかねない。勘弁していただきたい。言葉にせず、目でハルヒに訴える。ああハルヒさん、そんな無理難題は出されても困りますよ。宇宙人や未来人にあわせろと言う願いなら、今ならかなえて上げられますから、そっちに変えません?と。遂に腰の辺りまで上り始めた晴奈を抱き上げて、一緒にハルヒのほうを向いてみる。
「晴奈はお父さんと一緒にお仕事したい?」
「あ、きゃあ〜♪」
陥落は一瞬であった。がっくり。
「って言うことで、晴奈を連れて行くのは決まりね。多数決で」
「この家に多数決の原理は通用しなかったはずなのに………」
思い出す。俺はいやだといったのに連休中にいきなり海外旅行をねじ込んだり、俺が見たいと言った映画の隣のホールでやっていた映画に急遽シフトさせられたり。民主的な手段とはかくも残酷なものなのかっ、近代制度恐るべし。こんな風に搾取されていったであろう人々に敬礼。
「じゃ、練習ね!」
「イエッサー」
「きゃー♪」
*
で。なぜか俺はリビングで正座させられており、その目の前にはこれまたなぜかスーツを身にまとったハルヒ。
晴奈はいつも使っている柵つきベッドに寝かされている。
「プラクティス!」
「質問が二つあるのだが」
「何よ、言って御覧なさい?ちなみに、くだらない事だったらこのムチが火を吹くわ」
くだらない質問は駄目なそうなので、とりあえずムチなんて持っていないじゃないか………という視線を送ってみる。するとその考えを最初から見透かしていたかのようにハルヒ、グレーのスーツの袖をめくり、腕を思い切りしならせてから一振りする。
ドギュン、というありえない音が目の前を通り過ぎた。
「水銀を意識するのよ、水銀をね」
「お前はどこの毒手使いだっての………」
「卑怯とは言うまいね」
「言わねーよ!」
反抗しないほうがいい、と言うことは分かったが。
「で、質問は?」
「ああ………まずな、どうして晴奈はあそこにいるのか、と、どうしてお前はスーツ姿なのか」
そもそも晴奈を連れて行くために、お仕事をしやすいお守り体勢を考えるというのが今の目標である。タイトルを付けるとするなら、「せめて、社会人らしく」と言ったところだろうか。色々とやりかたを考案してもらうことはあれ、直接ハルヒがどうこうという問題ではないのだから、スーツなんぞ切る必要は無いのだが。
「だってキョン、あたしがスーツ着てると嬉しそうじゃない」
「え、俺のため?それはどうも申し訳………」
「冗談よ」
「ですよね」
む、と睨まれるが、あまり反抗的な態度をとれば鞭打(べんだ)の餌食だろう。腕を鞭に見立てての攻撃法、それは体表面に痛みを負わせることに特化した格闘術。筋力よりもスピードとしなやかさが要求される技ゆえ、女性にも扱えるというメリットがある。そんなものをどこで習得したのかは知らないが。
「あのね、いくらあんたが『支障なく』仕事を進めたって、いつも通りの分しか消化できないでしょう?で、あんたはいつもなら今はどこにいて、実際は今、どこにいるのよ」
「どこ、って、いつもなら会社に決まってるだろ………ああ、そうか」
つまり、遅刻した分は取り戻しようがないということか。だからハルヒがヘルプに回ってくれると、そういうことらしい。逆に言えば、今は育児休暇で仕事を休んでいるハルヒが出てきて手伝ってくれるのだから、仕事の効率的には二倍になり、午前をまるまるすっぽかしてもノルマを達成できるということだろう。ハルヒもなかなか考えているようだ。
「あたしもそろそろ働きたくてうずうずしてたところだしね。で、晴奈だけど………そうね、例えば、マラソンの練習をするのに、百メートルをマラソンのペースで走る、っていうのはありだとおもう?」
「んー?百メートルを全力で走る、ってのは、筋力とかラストスパートを伸ばす練習になるって聞いた事があるが。それだと足慣らし程度にもならんと思うぞ」
「そうよね。つまり………晴奈を担いでここで練習したところで、実際仕事をする時には参考にならないって事よ!」
「なっ、なんだってー!」
ってー。ってー。ってー。ってー。
大げさなリアクションが空しくリビングに響いた。
「………あー、コホン」
「あ、なかった事にする気ね」
「うるせー、お前も少しは気を使ってだな」
まあいいか。うん、だから、長い間晴奈を背負いながら仕事をするには、今この全く疲れていない状態………と言っても、既にやや疲れてはいるが、でテストをしたって無理だと言うことだな。その言い分はもっともな物で、しかしそれを看過しているハルヒならば解決法も考えているはずなのだが、さてどうなのだろう―――って、あれ?いつの間にか目の前からハルヒが消えていぐんぎゃっ!?
「うおおっ………何だあっ!?」
目をリビングの奥にやろうとしたその瞬間、背中にいきなり重量がかかる。この重さ、いかにもこの身に慣れたもので………
「なにしやがるっ、ハルヒ!」
「解決法よ、解決法。ほら、このまんま立ち上がってみなさい」
「いや、でも重いし………」
「………あんたはあと四回『重い』って言っていいわ」
「それ以上言ったら?」
肩に手が回されるのと同時、首筋に舌が這う。
「………噛み切る」
「ジャックハンマーッ!?」
いくらなんでも頚動脈切断は怖かったので、今度は全精力を持って立ち上がる。正座から立ち上がるのはそれなりに体力を使うものの、やってしまえば後はどうということのない、ありふれた負んぶだ。肩にちゃんと手が回っているのを確認してから、ハルヒの足の下に手を入れて体勢を固定する。それなりに安定したものと言える。
「あはは、高い高い!まるでそびえ立つクソね!」
「軍曹気取りはやめれ。で、どうすんだこれから」
「んー、そうねえ、やっぱり耐久性とか作業のし易さとか見なきゃだし。キッチンに行ってお茶を入れなさい」
「はいはい、了解です軍曹殿」
高いところが好きなのか、テンションが上がっているハルヒを背中にキッチンへ向かう。お茶と言っても、作り置きの普通のお茶ではあまり意味がないだろう。なんせ耐久性やらなにやらを見ようと言うのだから、当然何らかの作業をしなければならないと言うことである。この程度の意思疎通は出来てしかるべき―――というか、できないと怒られるのでとても気を使うのだ。
「んふふ、そうそう、正解ね。この時間に入れるなら優雅に紅茶よ」
「この状況で優雅もクソもないと思うけどな………いてえ!耳を噛むな!せめて甘噛みに!」
どたどたしながらも手を進める。
湯を沸かしながら、もらい物の陶製のポットと、もらい物のティーセットに、これまたもらい物の茶葉。お湯が沸いたらポットとカップにそれを入れ、適度に暖めることも忘れずに。温まったら改めて茶葉を入れ、熱湯を注いだ。ふたを閉めてしばらく待てば、キッチンに紅茶の香りが漂い始める。正しく優雅なひと時である。見た目以外は。
「………ほれ、出来たぞ」
「うん、手順は上出来ね。………でも、ウチにある紅茶ってもらい物ばっかりねえ」
もらえるのだから仕方ないのだと思うが。悪いことでもあるまいし、いつも新鮮な紅茶を楽しむことが出来るのだから感謝しておかなくては。今もまだ、紅茶の求道は遥かかなたまで果てしないのだそうだ。
俺は背負ったまま、ハルヒは背負われたまま、二人で紅茶を飲み干した。首筋に熱い紅茶を落とされて、危うくハルヒを落としそうになったのは、まあ笑い話の一つとしておこう。この噛み跡さえなければ、俺も楽しいだけで済んだのかもしれないが。
*
紅茶も飲み終わり、時間もそろそろ十一時を回ろかというところ。相変わらずハルヒを負ぶったまま、リビングへ帰る。
と、立ち上がった晴奈と目が合った。晴奈の目が細まり、しかし笑っているのではなく、その奥は間違いなく赤く充血していて―――
「うああああ―――ん!」
「おいっ、晴奈、どうしたっ!?」
「ちっ………マズったわね、キッチンで何か口にしたのを気取られたわ!」
「そんな事なのか!」
いやしかし、子供にとっては、食い物の恨みは恐ろしいと言うのは本当の事だからな。確かに失敗だ、どうせ晴奈は飲むことのできない紅茶なんだから、こっちまで持ってきて飲めばよかったのに―――!
「今は悔いてる場合じゃないわ!このまま泣かれ続けたら―――こころが割れちゃうじゃないの!あたしたちの!」
「それはもっともな意見だっ!」
わが子の泣き声とは何故にかくも心を掻き毟るのか!俺はハルヒを背負ったままリビングのテーブルの引き出しを勢い良く開ける。勢いがつきすぎて中身が床に散乱するが、そんなものは後で片付ければいい。むしろ、探し物が見つかることの方が重要だ―――!
「あった!そこ!」
「おいさ!」
背中から伸びた指が示したブツを手に取り、神速で晴奈のベッドへ。泣き声の発信源のそこは、俺たちにとって見れば精神攻撃を常に受けているようなもので、一刻も早く泣き止ませて、できれば笑い声を聞かなければ死んでしまう。
「晴奈、ほらっ!」
「うああ………………あ?」
見事に泣き止んでくれた。恐るべき威力よ、ロリポップ。日本語で言うならペロペロキャンディー。一部日本語じゃないけどな。いかにも子供が喜びそうな毒々しいほどの鮮やかさを持ったそれを、晴奈は買い物の最中に目をつけて泣くほどに欲しがっていたのだ。その時は着色料云々が恐ろしかったので、その辺の心配のないものを後で買ってしまっておいたのだが。
「きゃあ♪」
とりあえず成功だったようで。ハルヒと、それをを負んぶした俺が、泣きながらキャンディを舐める晴菜にニヤケるという図式はその後数分に渡って続いた。
*
で。
「もうさ、負んぶでいいんじゃないのか?適当なイスを使えば問題ないだろうし」
「そうねー、晴奈も鬼かわいかったし」
「鬼かわいかったなー」
人をうっかり殺しかねないような可愛らしさを鬼可愛らしいと言う。生まれて三秒と経っていない表現である。
「でも、まだちょっとだけ時間あるしね。他のやり方も考えて見ましょ」
「ん、まあ、試すくらいなら」
@お姫様だっこ
「これはなかなかじゃない、キョン?なんだかとっても気分がいいわね」
「気分がいいのは喜ばしいが………両手が使えないので」
却下。
Aダッコちゃんスタイル(腕)
「うううう………」
「ぬおおおお………」
体力的に却下。
Bブレーンバスター
「これは何か間違ってる気がするわ」
(………パンチラ天国………)
論理的に却下。
C前から抱きつきスタイル
「これって結構いいんじゃないの?補助具使えば手も自由になるし」
(………電車で売ってるお弁当しか思いつかん………)
倫理的に却下。
………………………。
結局、最初の案どおり。晴奈を俺が負ぶって仕事をすると言う方針で落ち着いた。
ちなみにハルヒが背負えばいいのにと言う意見に対しては、
晴奈はあんたのほうが嬉しそうなんだもの、というある人物の証言を以って返答としておこう。