数学・物理学の始祖として名高いニュートンが、晩年は錬金術師としての活動に専念していた事はあまり知られていない。それ以前の功績が大きすぎて他の仕事が霞んでしまった、というわけでもなく、ただ単に知られる必要の無かったことだからだと思うが、しかし死後に彼の髪から水銀の成分が検出されたことから考えても、その入れ込みようは常人の想像するそれとは段階を一つ隔てていると思う。

仮にニュートンに死の間際、生涯を思い返す機会があったとすると、彼はどのような感慨を抱いたのだろうか。現代の世に知られている功績を思い浮かべたのか、それとも当時没入していた錬金術や、聖書の研究を思い返していたのか―――故人に関してこのような推量は、生きている人間に対してのそれよりも無意味なことだと思うが―――きっと、どちらでもあったのではないかと俺は思う。

なぜなら、現在の知名度は世代を経て構築されたものであるということを勘定の外に置いたとしても、数学者や物理学者としての名声はあくまで自分以外の人間が下したものであり、人生という個人的な記憶の総和にはそこまでの影響を与えるものでは無い。同じ理屈で、対外的には評価されていなかったり知られていなかったり、もっと極端に言えば秘密にしていた事柄だって、人生観には深く関係してくる事もある。

―――高校生の時点でハルヒは、世界を塗り替える可能性を内に秘めた人間だった。ついでに言えば時間航行の理論を自分で構築してしまうような人並みはずれた人間でもあったわけだが、それらはハルヒの人生にあまり大きなことではない。影響を与えたことと言ったら、間接的にそれが騒ぎの原因になったり、または人々との出会いを演出したりといったところか。

だから、同じ理屈で。

「はーい晴奈、ミルクあげましょうねー」
「あー♪んく、んく、んく………」

「ここって会社なんだよな………?」

ディスプレイに向き合った俺の肩越しに聞こえてくる声の主は、今日の事をきっと後まで忘れないのではないかと思うのだ。
あと、当然俺も。





<ターン・ターン・ターン 03>






  「んく、んく、んく………きゃー♪」
「おなかいっぱいになったわね?………なによキョン、こっち見てないで仕事しなさい」

仕事しなさい、と言われても、気になるものは気になるわけで。しかし、愚痴っていればそれにまたお叱りが飛んでくるだけなので自粛した。職場においていかに晴奈の世話と仕事を両立させるか、という至極マジメな命題における超実践的実験を自宅で終えた俺たちは、昼を済ませた後に家族三人まとまって車に乗り込み、休日にピクニックに出かけるかのような感覚に苛まれながらも職場に到達した。出来てからそう経っていない小奇麗な入り口を潜る子連れの三人組は、受付係にはいかにも異様に見えたことだろう。

「でも、どうして個室に移動させられてるのかしら。別に仕事の邪魔するわけじゃないのにね」
「あのなあ、俺でさえ気になって仕事がはかどってないのにだなあ………」
「そんなの言い訳よ言い訳。一つのことにちゃんと集中すれば周りの事なんて気にならなくなるのに、仕事に身が入っていないから惑わされちゃうの。だからあたしたちも向こうで仕事しましょ」

そう言って、今日限定の仕事場として明け渡された第三会議室のドアを開けようとするハルヒ。この部屋は小規模かつ簡易な話し合い用の部屋として設定されているために通常の職場と隣り合わせになっている、というか壁で遮られていはいるものの、ほとんど同じ部屋なのだ。

「ちょっと待てい!」

がちゃりと数センチほど開けられたドア、その取っ手を握るハルヒの手の上に自分の手を重ね、音に気をつけながら閉める。少しだけ見えた向こう側で目のあった同僚女性職員の、こちらに向けられた生暖かい視線が痛かった。急な動きにも驚く事無く、というかむしろコースター感覚で喜んでいる晴奈を一応確認し、不満そうな顔のハルヒと向き合う。

「なによ、あたしの完璧な理論に文句でもあるって言うの?」
「あのなあ、周りが見えなくなるほど集中するなんてのは普通出来ないの。お前、そんなの比喩かなんかじゃないのか」
「なに言ってるのよ、それくらい小動物でもすることじゃない。犬とか猫とか」

それは一つにメ集中してモリを割くと、他に回すだけの脳容量が無いだけではなかろうか。その旨ハルヒに伝え、今度こそちゃんと仕事をしようとデスクに向き合う。ハルヒもそれに関してはそこまでこだわる気も無かったらしく、それ以上は続けずに俺の隣に座った。ちなみに―――というか、言うまでもない事ではあるが、晴奈は車を降りてからここまでずっと俺の背中に負ぶわれている。それを隣のハルヒが随時世話しているのだが、さてこの状況に仕事の能率上の積極的な効果は見られるのだろうか。いや、俺があんまり気にしなけりゃいいだけか。職場の隅に忘れられたように置かれていた簡素な丸イスの硬い設置部分に割いていた意識もパソコンの画面に集中して、再び作業を始める。晴奈を連れてくるのを許してくれたのは社長だったそうだが、上司も年相応に気の回る人で、俺に回す仕事も比較的頭を使わなくてもいいものに差し替えてくれたことだし。

「普段からあんまり頭なんて使ってないでしょ」
「うるせー、これでもお前が抜けてからはそれなりにやってたんだよ。考えてみろ、ウチみたいなそこまででかくない企業の一部署で主力が抜けるってのは結構にデカいんだぞ」

それでなくてももともと頭のいいハルヒなのだから、抜けた穴をふさぐのは大変なことなのだ。だからこそこっちも、父親としての自覚を持って仕事に向き合えるというものなのだが。自己認識は深いくせに外からの評価にはやたらと鈍感なハルヒは、それを分かっているのかどうなのか、ふーんと気の無い返事をする。

カタカタカタ………と十畳ほどの部屋にタイピング音が響く。今日のお仕事は、他の会社から貰ってきたデータを、社内の人間への配布用に打ち直すという内容である。必要なものと不必要なものの選択はかなりイージーなので、ほとんど打つ手を止める事無く作業は進む。カタカタカタ。………とその時、

「あー♪」
「あいたっ!」

ぺちん!という音とともに頬に軽い痛み。

「こらこら晴奈、叩くならもっと痕の残らない場所よ。ボディーにしなさいボディーに」
「母親としてその注意の仕方はどうよ………ま、ボディーには届かんからいいけども」

やめてくれよー、と肩越しに晴奈に。あい、と返事なのかどうか微妙なものを返されたところで作業を再開、カタカタカタ………

ぺちん!

「いてっ!」
「急な痛みに『痛い』って言葉を出す人間はオタクらしいわよ。良かったわね晴奈、キョンはオタクじゃないって」
「そういう問題かよ?」
「そうよ。普通なら反射的に言葉を出すから『いたっ』とか『いてっ』とか、そんな悲鳴みたいな感じになるんだけど、オタッキーなマインドの持ち主は発言が一々セリフ的だからね」
「そんな事は聞いてねえよ!」

掛け合いを繰り広げながら、頬の軽い痛みを気にしながら、また作業を………

カタカタ………ぺちん!

「いたっ!」

カタカタ………ぺちん!

「いてえ!」

カタカタ………ぺちん!

「だから痛いって!」

「言ったじゃない晴奈、狙うならボディーを………」
「それはもういいって」

恐らくは恨みがましい目をしながら首を捻り、背中の晴奈を見る。きっと腫れているであろう俺のそれとは対照的に、いかにも健康的なほっぺたを軽く赤らめてとても楽しそうに笑う娘の姿がそこに。殴ったね、妹にも殴られたこと無いのに、といった感じだ。なしてそないなことしはるんですか、とエセ関西弁で問いかけてみるも、まだ言葉を覚えてもいない晴奈からは答えは返ってこない。それならせめて視線で会話を交わせまいかとにらめっこをしていると。

「………ねえ、ちょっと席代わってくれない?」
「んー?いいけど、その仕事はお前には出来ないと思うぞ。データも最近のやつだしなー」
「いいのよ、別にあたしが仕事を代わろうなんて思ってないから」

そう言って強引に俺を押しのける。何なんだ一体と思いながら見守っていると、それまで立ち上げていたアプリケーションを一旦最小化し、何を思ったのか思い切り速度超過なスピードでタイピングを始める。カタカタカタというよりもタタタタタタ、と表現したほうが近いであろう、機銃掃射を思わせるような音が生み出され、

ぺちぺちぺちぺちぺち!

「あいたたたたたたた!」
「暗殺拳伝承者かすみさん?」
「萌えキャラっぽく言うな、かつ読み切り版限定なマニアック知識を披露するな」

さらにツッコミを入れるならば、攻撃されている側なのだからひでぶとか言った方がいいのだろうが。

「冗談は置いておいて………これはあれね、リズムを取っているのよ晴奈は」
「リズム?」
「ええ、タイピングの音に乗せて一定の間隔であんたのほっぺたを叩いているのね。だから、こうすれば………」

タタタタタタタタタタタ!

ぺちぺちぺちぺちぺち!

「モーツァルトを奏でることもできるわ。晴奈は将来音楽家になるのかもねー♪」
「あー♪」
「音楽家はいいとして、俺の頬で遊ぶなっての。しかしな、そんなのだったら仕事にならんぞ」

出来ないことはないが、それで数時間に渡って叩かれ続けようものなら本気で頬の状態が洒落にならないのではないだろうか。苦行にも近いそのような行為、もし成し遂げたなら俺は聖人にも劣らぬ生けるハートフル軍曹として語り継がれることになるのかもしれないが、あいにく俺はそんな地位や名声には興味が無い。ここは大人しく、ハルヒに負ぶってもらう事に………いやいや、それこそ大惨事になるし。ハルヒの頬を叩くなんてのはお天道様が許しても俺が許さないし、しかし晴奈を叱る事も出来ないし、というダブルバインドに苛まれることになってしまう。どうすれば………!

「あんたねー。これはマーク式の試験でもなんでもないんだから、そんな二つに一つみたいな選び方しなくてもいいのよ。晴奈ー、今度はね、ここを叩いてみなさい。そうしたらキョンも喜ぶし、もーっと気持ちのいい音がするからね」
「あい」

俺が悩んでいると、ハルヒは晴奈に何かを吹き込んだようだ。そして、もう一度俺の変わりにパソコンの前のイスに座り、再びタイピングを始める。俺はほとんど反射的に頬への攻撃を予測して身構えてしまうのだが、今度は機銃掃射のそれではなく、俺がいつもしているような、耳障りの良い音を刻んで。カタカタカタ。

「きゃあ♪きゃあ♪」
「おお………おおおっ………!?」

とすんとすんとすん。今度は布越しのリズムが、しかも頬からではなく肩から。

「発想の転換ね。ダイナマイトが軍事転用されたのとニュアンス的には逆だけど」
「おう、おう、おう………」

娘が、晴奈が肩を叩いてくれている。つまり、はじめての肩たたきが今この瞬間に。刺激としては軽いのだが、晴奈が疲れるか飽きるかするまではこの調子なのだろうから、むしろその方がいいのだろう。

「後であたしにも代わりなさいよ、晴奈はあんただけのもんじゃないんだから」
「はいはい、分かってるよ………ああ、気持ちよか………」

部屋に響くハートフルな交響曲は、その後晴奈が寝てしまうまで続けられたのだった。



「ところでさ」
「なんだよ」
「さっきの展開って新聞の四コマみたいよね」

………それは、言わない約束。
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