「やっはー!しっかり捕まってなよキョンくん、振り落とされちゃうからねっ!」
前方不注意にも程がある体勢で俺に注意を促しながら、容赦なく通行人を追い抜いていく。ハルヒに負けずとも劣らぬ文武両道っぷりは素晴らしい事だが、自転車に二人乗りをしているのに立ち漕ぎをするのは少々危険だと思う。邪魔にならないように纏められた髪を体と体で挟むようにして、鶴屋さんの命令に従った。
「鶴屋さんっ」
「んっ、呼んだっ?もうちょっとであの原付抜かせそうなんだけどっ」
毎朝公道レース気分なのだろうか、このお嬢様は。上体を揺らす事も殆ど無く、理想的なフォームのまま、程無くしてターゲットを抜き去った。耳元を切る風の音が心地よいが、そうではなくて。
「二人乗りで登校してる事は目を瞑るとして、なんで鶴屋さんが前なんですかっ!周りの目が痛いんですけどっ」
「ありゃっ?キョンくんはこういうのが好きだと思ったんだけど、違ったかな?」
「こういうの、ってどういうのですかっ。これじゃまるでヒモ野郎ですよ」
「んー、そういう見方もあるのかなっ。でも、女の子に引っ張られるの、好きでしょ?」
「いやそんな事は………っていうか、どこからそんな発想に、」
瞬間、脳裏にあいつの姿が浮かぶ。つまり何か、俺はいつも周りから、少なくとも鶴屋さんからはそんな風に見られていたということか。俺にしてみれば貴重な青春の一ページを豪快に燃やしているような気分でしかないのだが。死して屍拾うものなし、燃えて砕けて灰と散る、といった感じで。
「どうにょろっ」
だから前方不注意は良くないですと言っているのに。朝の日差しと重なってそんな笑顔を見せられたらこっちが困ってしまう。そして前を見ていないのにどうやって人の波を器用に潜り抜けていけるのか。
「どうって………そりゃ、嫌いではないですけど。でも、今は出来れば俺が前に行きたいですよ」
「そっか、それじゃあお願いしようかなっ」
ききっ、とタイヤが擦れる音を立てて急停車。弾みで背中にさらに密着してしまうが、そんな事は産毛ほども気にしていないという感じで、鶴屋さんは自転車から降りた。入れ替わるようにサドルに座り、その暖かさに狼狽すると共にサドルの位置にさほど違和感が無かった事に驚いた。さすが鶴屋さん、スタイルのよさは折り紙付きなのだ。
「じゃ、頼むよっ。ものげっついスピードでぶっ飛ばしてねっ!」
「了解………って、鶴屋さん?」
「何かな、キョンくんっ」
むにゅんと。後ろの荷台に座った鶴屋さんから、慎ましやかでそれでいて豊潤な感触が。
「その………胸が当たってるんですけど」
「あててるにょろっ」
どこか懐かしいような、かつ新感覚のような言葉を。なるべく気にしないようにしながら、学校への道のりを再び走り出した。賓乳だ、賓乳。
異性と、しかも魅惑の先輩と並んで校門を潜る事がこれほどの瑞々しさを心にもたらす物だとは。思えば実家の立地条件やら、起きる時間の不正確さなどで、男友達でさえも一緒に登校する事は少なかった。それがどうだ、今俺の隣を歩いている存在のきらびやかな事といったら。俺がこの状況を見ている立場だったとしたら、俺は鶴屋さんの隣の人間ををぶん殴りたくなるだろうが。
「さっすがキョンくんだねっ、いつもよりも早くついちゃったよ!見て見てっ、岡部っちが走ってるっ」
「ほんとだ、結構時間的に余裕ありますね」
背中に感じる感触に気が行って何がなんだか分からなかった、とは言えない。下駄箱で上履きに履き替え、一緒に階段を上る。二年生の教室は三階、俺の教室は四階にある。年功序列制に従い、年を経るごとに負担が減る仕組みになっているのだ。
「人のいない校舎ってなんだかわくわくするねっ。あたしってば昔、夜中の学校に忍び込んだ事もあるんさっ!あんときはものごっつい怖かったね、思わずトイレ全部覗いちゃったくらいだよ」
怖いのに覗くあたりがこの人らしい。しかしアレだ、誰もいない校舎か。八重歯を覗かせながらわくわくするなんて言われたら、否定できるわけが無い。個人的に無人校舎にはあまりいい思い出が無いのだが、鶴屋さんと一緒ならば話は別だ。例を挙げて考えてみよう。
鶴屋さんとふたりっきりの廊下。
なんだか青春群像劇っぽい。
鶴屋さんとふたりっきりの教室。
夕日が差し込んでいたら最高だろうな。
鶴屋さんとふたりっきりの音楽室。
意外とクラシックも似合いそうだ。
鶴屋さんとふたりっきりの保健室。
致命傷だ。これで小説を一冊書けてしまうだろう。
なんと素晴らしい。さて、階段の一つや二つなんてのは、時間にしてみれば少しの事である。すぐに鶴屋さんの教室のある階まで到着して、そこで一旦お別れだ。
「じゃあ、お昼休みに迎えにいくにょろ。お弁当作ってきたからさっ」
「お腹空かせて待ってますから、お願いします」
本当ならば俺が迎えに行くのが筋なのだろうが、上級生の教室に入るというのはそれだけで大きな関門なのだ。悪名だけは大いに知れ渡っている我が団の事もあるしな。それを踏まえての気遣いなのだから、断る方がかえって失礼だ。教室に向かって歩いていく鶴屋さんがもう一度振り返ってこちらに手を振るのに反応してから、俺も自分の教室へと階段を上り始めた。
*
「………おはよ〜」
「おう、おはよう。なんだハルヒ、今日はえらく元気が無いな」
「ん〜、なんか変な夢見ちゃって寝起きが悪いのよね。誰かに向かってずっと怒鳴り散らしてるってだけの夢なんだけど」
「そりゃお前、いつだってやってることじゃねえか」
「うるさいわね………そういうあんたは妙に機嫌がいいじゃない」
「………そうか?そんなことは無いと思うぞ?」
「あるわよ。朝からあんたのニヤケ顔見て余計に気分悪いんだから………どうせみくるちゃん絡みなんでしょうけど。それとも有希かしら?最近やけに仲がいいけど」
「残念ながらどっちでもねえよ」
「ま、そうよね。あんたがモテるところなんて想像できないし。地味具合ならラブコメの主人公といい勝負なんだから、頑張れば一人くらいは捕まるかもしれないわよ?」
「ご忠告痛み入るっつーの。そういうお前はどうなんだよ、浮いた話の一つも聞いたことないぜ?」
「いいのよあたしは、そんなのは精神疾患の一つって言ったでしょ」
「ま、それならそれでいいかもしれんがね。おっ、岡部だ」
「また朝練の格好のままなのね。ホントに気が滅入るわ………」
*
前振りも無く昼休みである。いつもなら持参した弁当を掻き込んで、限られた休み時間を有効活用するという学生らしい命題に取り組むところなのだが。しかし今日は事情が異なる。鶴屋さんが自前の弁当を持って教室まで来てくれるというのだから―――って、教室?
あまり考えていなかったが、教室まで来られたら大変な事になる気がする。なんせ鶴屋さんといったらその外見と内面の両方において学内の有名人であり、その人が俺に手作り弁当なんぞ持ってた日には、谷口といわず全ての男性諸君から呪い殺されかねない。
幸いハルヒは昼休みが始まったとたんに教室を出て行ってしまったので、あいつに関しては心配ないのだが。
「お、キョンどこ行くんだよ。男同士で濃密な飯を喰おうぜ。知ってるか?ラベンダー油を使うと男でも胸が大きくなるんだってよ」
「俺にどうしろって言うんだお前は。今日はちょっと用事があるから無理だ、悪いな」
「っんだよ、付き合い悪いなー。仕方ない。国木田、お前ちょっとラベンダー油を塗ってみる気は無いか?」
「谷口は病院に行ったほうがいいよ」
騒いでいる二人を背に席を立つ。近い方の階段で待っていればきっと会えるだろう―――と、教室のドアをがらりと明けた時。
「わわっ、びっくりしたっ」
鶴屋さんとハチ合わせをすることになった。
「ナイスタイミングだね、キョンくんっ。ハルにゃんはいないのかな?」
「あいつはこの時間は大抵そこら辺を歩き回ってますよ。一箇所に留まる事が苦手なんです」
「ふーん、そっかそっか」
むむむ、と腕組みしてなにやら考え込んでいる鶴屋さん。片方だけ八重歯が覗く口元がぷりちーだ。―――と、そこで。今、この場所で鶴屋さんと話しこんでいることが、やや危険な行動である事に気が付いた。なんせ、後ろに振り向いてみれば谷口の射殺さんばかりの視線が突き刺さるし、廊下を歩いている生徒たちも、鶴屋さんが手から下げている明らかに複数人用の弁当を見て訝しがっているし。こりゃいかん。このままでいることは、ウサギがライオンの口に自分から飛び込んでいくようなものだ。
「鶴屋さん、取り合えずここを離れましょう」
「んー。そうだねっ、じゃあ屋上に行くにょろ」
分かりました、と言うと同時に鶴屋さんから二人分の弁当を受け取り、足早に教室の外へと向かう。ざわざわと教室が騒がしくなり始め、谷口の咆哮がこだまするのを背中で聞きながら階段を上った。
今日は朝から少し風が強かったので、ドアを開けるときに向こうから押されているような感触が
ある。力を入れて向こう側に押し開け、幸運な事に誰も居ない事を確認すると、二人で適当な場所を探して座った。
「じゃじゃーんっ!今日のおべんとお披露目だっ!」
三段重ねの大業な弁当箱の蓋を開けると、そこには絢爛豪華な食品の数々―――ではなく、素朴な、これぞ母親の味と言った感じのメニューが並んでいた。
しかし侮る事なかれ、このさり気無い品々の一つ一つには細かな気配りが行き届いている。日頃朝比奈さんのメイド作法を目にしていたせいで、そういった人の心配りには敏感になっているのだ。例えば―――盛り付け一つ見てもそうだ。彩り鮮やか、片方による事なく整っているそれは、大きいものから先に詰めていくというセオリーだけでなく、持ち運ぶ時の気の使い方まで伝わってくる。おひたしは汁が他の食材に行ってしまわないよう、丁寧に形作られたアルミホイルで区切られていた。きっと栄養バランスも完璧だろう。
「すごい………!これ、鶴屋さんが全部作ったんですか?」
「お婿さんを迎えるんだからそれくらい当たり前っさ!ほらほら、げっつり食べてっ」
「あ、それじゃ………いただきます!」
まずはどれにしようか………と考えて、ふわふわな玉子焼きが目に入った。一つ手に取り、口に運んでみる。さっきまで笑顔だった鶴屋さんの目も、この瞬間だけはどこか不安交じりで―――これは!
「………どうにょろっ?」
「最高ですもがっ!」
最高の「う」の時点でこれ以上無い笑みを見せた鶴屋さんが、それならばと他の食材も口に詰め込んでくる。ハンバーグは冷めているのにおいしいし、ミニトマトは今摘み取ったかのように新鮮だ。こりゃあ毎日でも食べたくなる………なんて口にしてしまったらプロポーズになりかねないが。
「俺ばっかり食べてちゃ悪いですよ。鶴屋さんも食べてください」
「うんっ、実はあたしもめがっさ腹ペコなんっさ!さっきまで体育で走り回ってたからねっ」
そう言われると、鶴屋さんの体は少し火照っているようにも見える。運動の後だと言うなら納得できるな。と、鶴屋さんは魔法瓶を二本取り出した。お茶が二つあるのだろうか、なんて思っていると、コップにその中身をこぽこぽと注ぎ始めた。
「それ………味噌汁ですか?」
「そうそう。キョンくんが気に入ってくれたみたいだからねっ、今朝急いで準備してきたんっさ。調理室貸してもらってさっき作ってきたにょろっ」
渡された容器の中には、今朝の朝餉と寸分違わぬお味噌汁。作ったばかりだとあって湯気がもうもうと立ちこめていて、まさに日本食といった感じ。しかし、鶴屋さんの気配りには感心する以外ない。これはお嫁にもらうやつは幸せだぜ………と、その味噌汁を啜りながら考えて、
『お婿さんを迎えるんだからそれくらい当たり前っさ!』
さっき聞き流してしまった言葉を思い出して、赤面してしまった。
おいおい、これじゃあ断る理由を見つけるどころか、こっちからお願いしてしまいそうなほどの待遇だな。今に流されてしまう事は良く無いだろうが、しかし、ここまでしてもらって嬉しくないはずが無い。
と、いうか………鶴屋さんが俺を好きだという理由が、未だに分からないのだが。
それも知らずにここまでしてもらっても、俺には返せるものが何一つ無いような………。
「あの、鶴屋さん」
「んっ?何かなっ?もう一回食べさせて欲しい?」
「いえ、そうじゃなくて」
なんだか姉さん女房みたいだな、と思いながらも。
「なんというか、その………鶴屋さんは、俺のことが好きなんですよね?」
なんつーこっぱずかしい質問か。自分を殴ってやりたい衝動に駆られるのを、必死に押さえ込む。
「うんっ、そうだよっ!なんだいなんだい、照れちゃうじゃないかっ」
そして、こんな嬉しそうに答えてくれる鶴屋さんをどうにかしてしまいそうになるのも。
どうして好きになったんですか、と聞こうとしたところで、鶴屋さんに先に動かれた。唇の横に指を這わせて、離される。
「キョンくん、お米付いてるよっ」
「あ、すみませ………」
と、そこで。俺に向かい合っている鶴屋さんの。今まさに取った米粒を口に運んでいる鶴屋さんの、真後ろに。
どす黒い影が立っているのが見えた。
「ハルヒ………っ!」
「キョン………あんたは、毎回毎回集合時間に遅れて来るくせに、こういうことはしっかりとやってんのね………!」
黒いとかじゃない。これは、余りにも赤すぎて赤だと分からなくなった赤だ。それもとんでもなく密度が濃い。ハルヒの声に気が付いて振り向いた鶴屋さんは、何を思ったのか怒髪天状態のハルヒの目の前に仁王立ちする。
「ふふふ、鶴屋さん、今あたしはキョンに説教してるの。邪魔しないでくれる………?」
「まーまーハルにゃん、ちょっとだけ我慢してよっ。お説教は後であたしも一緒にがっつり聞いちゃうからさっ」
一緒に、のあたりでハルヒのこめかみの辺りに怒りのマークが一つ増えた。鶴屋さんはまさか、俺を殺そうとしているのではないだろうか。この行動は例えるならば、着火済みダイナマイトを天ぷら油でこんがり揚げてみました、といった感じの自殺行為だ。しかし流石に先輩且つ名誉顧問の鶴屋さんにあまり逆らうのはよろしくないと考えたのか、ハルヒもぐっと押し堪えている。
「ありがとねっ。実はさっきもハルにゃん探してたんだけど、教室に行っても見つかんないからさっ。めがっさ困っちまったんさっ。ハルにゃんって今、好きな人はいるのかいっ?」
「なっ………!」
なんて事をなんて時に聞くのかこの人はっ!こりゃ天ぷら油にダイナマイトを突っ込んだ挙句にプルトニウムで炒めてみましたって所か、おい。で、ハルヒもハルヒでなぜ押し黙るよ。今朝言ってたばかりだろうが、恋なんて下らないみたいなことを。
「それはっ、その………」
「あたしはいるよっ」
はい………!?声にならない声が漏れた。いや、さっき確認した所だからそれ自体には驚かないが、しかし今ここでハルヒに宣言するという事は、どういう事か。これじゃあ、まるで………
「あたしは、キョンくんが好きっ」
唖然とするハルヒ。頭痛を感じ始めた俺。
そして、今までで一番の晴れやかな笑顔な鶴屋さん。
これじゃあまるで、宣戦布告じゃないか―――!?
前方不注意にも程がある体勢で俺に注意を促しながら、容赦なく通行人を追い抜いていく。ハルヒに負けずとも劣らぬ文武両道っぷりは素晴らしい事だが、自転車に二人乗りをしているのに立ち漕ぎをするのは少々危険だと思う。邪魔にならないように纏められた髪を体と体で挟むようにして、鶴屋さんの命令に従った。
「鶴屋さんっ」
「んっ、呼んだっ?もうちょっとであの原付抜かせそうなんだけどっ」
毎朝公道レース気分なのだろうか、このお嬢様は。上体を揺らす事も殆ど無く、理想的なフォームのまま、程無くしてターゲットを抜き去った。耳元を切る風の音が心地よいが、そうではなくて。
「二人乗りで登校してる事は目を瞑るとして、なんで鶴屋さんが前なんですかっ!周りの目が痛いんですけどっ」
「ありゃっ?キョンくんはこういうのが好きだと思ったんだけど、違ったかな?」
「こういうの、ってどういうのですかっ。これじゃまるでヒモ野郎ですよ」
「んー、そういう見方もあるのかなっ。でも、女の子に引っ張られるの、好きでしょ?」
「いやそんな事は………っていうか、どこからそんな発想に、」
瞬間、脳裏にあいつの姿が浮かぶ。つまり何か、俺はいつも周りから、少なくとも鶴屋さんからはそんな風に見られていたということか。俺にしてみれば貴重な青春の一ページを豪快に燃やしているような気分でしかないのだが。死して屍拾うものなし、燃えて砕けて灰と散る、といった感じで。
「どうにょろっ」
だから前方不注意は良くないですと言っているのに。朝の日差しと重なってそんな笑顔を見せられたらこっちが困ってしまう。そして前を見ていないのにどうやって人の波を器用に潜り抜けていけるのか。
「どうって………そりゃ、嫌いではないですけど。でも、今は出来れば俺が前に行きたいですよ」
「そっか、それじゃあお願いしようかなっ」
ききっ、とタイヤが擦れる音を立てて急停車。弾みで背中にさらに密着してしまうが、そんな事は産毛ほども気にしていないという感じで、鶴屋さんは自転車から降りた。入れ替わるようにサドルに座り、その暖かさに狼狽すると共にサドルの位置にさほど違和感が無かった事に驚いた。さすが鶴屋さん、スタイルのよさは折り紙付きなのだ。
「じゃ、頼むよっ。ものげっついスピードでぶっ飛ばしてねっ!」
「了解………って、鶴屋さん?」
「何かな、キョンくんっ」
むにゅんと。後ろの荷台に座った鶴屋さんから、慎ましやかでそれでいて豊潤な感触が。
「その………胸が当たってるんですけど」
「あててるにょろっ」
どこか懐かしいような、かつ新感覚のような言葉を。なるべく気にしないようにしながら、学校への道のりを再び走り出した。賓乳だ、賓乳。
<ハートとハートに火をつけて>
異性と、しかも魅惑の先輩と並んで校門を潜る事がこれほどの瑞々しさを心にもたらす物だとは。思えば実家の立地条件やら、起きる時間の不正確さなどで、男友達でさえも一緒に登校する事は少なかった。それがどうだ、今俺の隣を歩いている存在のきらびやかな事といったら。俺がこの状況を見ている立場だったとしたら、俺は鶴屋さんの隣の人間ををぶん殴りたくなるだろうが。
「さっすがキョンくんだねっ、いつもよりも早くついちゃったよ!見て見てっ、岡部っちが走ってるっ」
「ほんとだ、結構時間的に余裕ありますね」
背中に感じる感触に気が行って何がなんだか分からなかった、とは言えない。下駄箱で上履きに履き替え、一緒に階段を上る。二年生の教室は三階、俺の教室は四階にある。年功序列制に従い、年を経るごとに負担が減る仕組みになっているのだ。
「人のいない校舎ってなんだかわくわくするねっ。あたしってば昔、夜中の学校に忍び込んだ事もあるんさっ!あんときはものごっつい怖かったね、思わずトイレ全部覗いちゃったくらいだよ」
怖いのに覗くあたりがこの人らしい。しかしアレだ、誰もいない校舎か。八重歯を覗かせながらわくわくするなんて言われたら、否定できるわけが無い。個人的に無人校舎にはあまりいい思い出が無いのだが、鶴屋さんと一緒ならば話は別だ。例を挙げて考えてみよう。
鶴屋さんとふたりっきりの廊下。
なんだか青春群像劇っぽい。
鶴屋さんとふたりっきりの教室。
夕日が差し込んでいたら最高だろうな。
鶴屋さんとふたりっきりの音楽室。
意外とクラシックも似合いそうだ。
鶴屋さんとふたりっきりの保健室。
致命傷だ。これで小説を一冊書けてしまうだろう。
なんと素晴らしい。さて、階段の一つや二つなんてのは、時間にしてみれば少しの事である。すぐに鶴屋さんの教室のある階まで到着して、そこで一旦お別れだ。
「じゃあ、お昼休みに迎えにいくにょろ。お弁当作ってきたからさっ」
「お腹空かせて待ってますから、お願いします」
本当ならば俺が迎えに行くのが筋なのだろうが、上級生の教室に入るというのはそれだけで大きな関門なのだ。悪名だけは大いに知れ渡っている我が団の事もあるしな。それを踏まえての気遣いなのだから、断る方がかえって失礼だ。教室に向かって歩いていく鶴屋さんがもう一度振り返ってこちらに手を振るのに反応してから、俺も自分の教室へと階段を上り始めた。
*
「………おはよ〜」
「おう、おはよう。なんだハルヒ、今日はえらく元気が無いな」
「ん〜、なんか変な夢見ちゃって寝起きが悪いのよね。誰かに向かってずっと怒鳴り散らしてるってだけの夢なんだけど」
「そりゃお前、いつだってやってることじゃねえか」
「うるさいわね………そういうあんたは妙に機嫌がいいじゃない」
「………そうか?そんなことは無いと思うぞ?」
「あるわよ。朝からあんたのニヤケ顔見て余計に気分悪いんだから………どうせみくるちゃん絡みなんでしょうけど。それとも有希かしら?最近やけに仲がいいけど」
「残念ながらどっちでもねえよ」
「ま、そうよね。あんたがモテるところなんて想像できないし。地味具合ならラブコメの主人公といい勝負なんだから、頑張れば一人くらいは捕まるかもしれないわよ?」
「ご忠告痛み入るっつーの。そういうお前はどうなんだよ、浮いた話の一つも聞いたことないぜ?」
「いいのよあたしは、そんなのは精神疾患の一つって言ったでしょ」
「ま、それならそれでいいかもしれんがね。おっ、岡部だ」
「また朝練の格好のままなのね。ホントに気が滅入るわ………」
*
前振りも無く昼休みである。いつもなら持参した弁当を掻き込んで、限られた休み時間を有効活用するという学生らしい命題に取り組むところなのだが。しかし今日は事情が異なる。鶴屋さんが自前の弁当を持って教室まで来てくれるというのだから―――って、教室?
あまり考えていなかったが、教室まで来られたら大変な事になる気がする。なんせ鶴屋さんといったらその外見と内面の両方において学内の有名人であり、その人が俺に手作り弁当なんぞ持ってた日には、谷口といわず全ての男性諸君から呪い殺されかねない。
幸いハルヒは昼休みが始まったとたんに教室を出て行ってしまったので、あいつに関しては心配ないのだが。
「お、キョンどこ行くんだよ。男同士で濃密な飯を喰おうぜ。知ってるか?ラベンダー油を使うと男でも胸が大きくなるんだってよ」
「俺にどうしろって言うんだお前は。今日はちょっと用事があるから無理だ、悪いな」
「っんだよ、付き合い悪いなー。仕方ない。国木田、お前ちょっとラベンダー油を塗ってみる気は無いか?」
「谷口は病院に行ったほうがいいよ」
騒いでいる二人を背に席を立つ。近い方の階段で待っていればきっと会えるだろう―――と、教室のドアをがらりと明けた時。
「わわっ、びっくりしたっ」
鶴屋さんとハチ合わせをすることになった。
「ナイスタイミングだね、キョンくんっ。ハルにゃんはいないのかな?」
「あいつはこの時間は大抵そこら辺を歩き回ってますよ。一箇所に留まる事が苦手なんです」
「ふーん、そっかそっか」
むむむ、と腕組みしてなにやら考え込んでいる鶴屋さん。片方だけ八重歯が覗く口元がぷりちーだ。―――と、そこで。今、この場所で鶴屋さんと話しこんでいることが、やや危険な行動である事に気が付いた。なんせ、後ろに振り向いてみれば谷口の射殺さんばかりの視線が突き刺さるし、廊下を歩いている生徒たちも、鶴屋さんが手から下げている明らかに複数人用の弁当を見て訝しがっているし。こりゃいかん。このままでいることは、ウサギがライオンの口に自分から飛び込んでいくようなものだ。
「鶴屋さん、取り合えずここを離れましょう」
「んー。そうだねっ、じゃあ屋上に行くにょろ」
分かりました、と言うと同時に鶴屋さんから二人分の弁当を受け取り、足早に教室の外へと向かう。ざわざわと教室が騒がしくなり始め、谷口の咆哮がこだまするのを背中で聞きながら階段を上った。
今日は朝から少し風が強かったので、ドアを開けるときに向こうから押されているような感触が
ある。力を入れて向こう側に押し開け、幸運な事に誰も居ない事を確認すると、二人で適当な場所を探して座った。
「じゃじゃーんっ!今日のおべんとお披露目だっ!」
三段重ねの大業な弁当箱の蓋を開けると、そこには絢爛豪華な食品の数々―――ではなく、素朴な、これぞ母親の味と言った感じのメニューが並んでいた。
しかし侮る事なかれ、このさり気無い品々の一つ一つには細かな気配りが行き届いている。日頃朝比奈さんのメイド作法を目にしていたせいで、そういった人の心配りには敏感になっているのだ。例えば―――盛り付け一つ見てもそうだ。彩り鮮やか、片方による事なく整っているそれは、大きいものから先に詰めていくというセオリーだけでなく、持ち運ぶ時の気の使い方まで伝わってくる。おひたしは汁が他の食材に行ってしまわないよう、丁寧に形作られたアルミホイルで区切られていた。きっと栄養バランスも完璧だろう。
「すごい………!これ、鶴屋さんが全部作ったんですか?」
「お婿さんを迎えるんだからそれくらい当たり前っさ!ほらほら、げっつり食べてっ」
「あ、それじゃ………いただきます!」
まずはどれにしようか………と考えて、ふわふわな玉子焼きが目に入った。一つ手に取り、口に運んでみる。さっきまで笑顔だった鶴屋さんの目も、この瞬間だけはどこか不安交じりで―――これは!
「………どうにょろっ?」
「最高ですもがっ!」
最高の「う」の時点でこれ以上無い笑みを見せた鶴屋さんが、それならばと他の食材も口に詰め込んでくる。ハンバーグは冷めているのにおいしいし、ミニトマトは今摘み取ったかのように新鮮だ。こりゃあ毎日でも食べたくなる………なんて口にしてしまったらプロポーズになりかねないが。
「俺ばっかり食べてちゃ悪いですよ。鶴屋さんも食べてください」
「うんっ、実はあたしもめがっさ腹ペコなんっさ!さっきまで体育で走り回ってたからねっ」
そう言われると、鶴屋さんの体は少し火照っているようにも見える。運動の後だと言うなら納得できるな。と、鶴屋さんは魔法瓶を二本取り出した。お茶が二つあるのだろうか、なんて思っていると、コップにその中身をこぽこぽと注ぎ始めた。
「それ………味噌汁ですか?」
「そうそう。キョンくんが気に入ってくれたみたいだからねっ、今朝急いで準備してきたんっさ。調理室貸してもらってさっき作ってきたにょろっ」
渡された容器の中には、今朝の朝餉と寸分違わぬお味噌汁。作ったばかりだとあって湯気がもうもうと立ちこめていて、まさに日本食といった感じ。しかし、鶴屋さんの気配りには感心する以外ない。これはお嫁にもらうやつは幸せだぜ………と、その味噌汁を啜りながら考えて、
『お婿さんを迎えるんだからそれくらい当たり前っさ!』
さっき聞き流してしまった言葉を思い出して、赤面してしまった。
おいおい、これじゃあ断る理由を見つけるどころか、こっちからお願いしてしまいそうなほどの待遇だな。今に流されてしまう事は良く無いだろうが、しかし、ここまでしてもらって嬉しくないはずが無い。
と、いうか………鶴屋さんが俺を好きだという理由が、未だに分からないのだが。
それも知らずにここまでしてもらっても、俺には返せるものが何一つ無いような………。
「あの、鶴屋さん」
「んっ?何かなっ?もう一回食べさせて欲しい?」
「いえ、そうじゃなくて」
なんだか姉さん女房みたいだな、と思いながらも。
「なんというか、その………鶴屋さんは、俺のことが好きなんですよね?」
なんつーこっぱずかしい質問か。自分を殴ってやりたい衝動に駆られるのを、必死に押さえ込む。
「うんっ、そうだよっ!なんだいなんだい、照れちゃうじゃないかっ」
そして、こんな嬉しそうに答えてくれる鶴屋さんをどうにかしてしまいそうになるのも。
どうして好きになったんですか、と聞こうとしたところで、鶴屋さんに先に動かれた。唇の横に指を這わせて、離される。
「キョンくん、お米付いてるよっ」
「あ、すみませ………」
と、そこで。俺に向かい合っている鶴屋さんの。今まさに取った米粒を口に運んでいる鶴屋さんの、真後ろに。
どす黒い影が立っているのが見えた。
「ハルヒ………っ!」
「キョン………あんたは、毎回毎回集合時間に遅れて来るくせに、こういうことはしっかりとやってんのね………!」
黒いとかじゃない。これは、余りにも赤すぎて赤だと分からなくなった赤だ。それもとんでもなく密度が濃い。ハルヒの声に気が付いて振り向いた鶴屋さんは、何を思ったのか怒髪天状態のハルヒの目の前に仁王立ちする。
「ふふふ、鶴屋さん、今あたしはキョンに説教してるの。邪魔しないでくれる………?」
「まーまーハルにゃん、ちょっとだけ我慢してよっ。お説教は後であたしも一緒にがっつり聞いちゃうからさっ」
一緒に、のあたりでハルヒのこめかみの辺りに怒りのマークが一つ増えた。鶴屋さんはまさか、俺を殺そうとしているのではないだろうか。この行動は例えるならば、着火済みダイナマイトを天ぷら油でこんがり揚げてみました、といった感じの自殺行為だ。しかし流石に先輩且つ名誉顧問の鶴屋さんにあまり逆らうのはよろしくないと考えたのか、ハルヒもぐっと押し堪えている。
「ありがとねっ。実はさっきもハルにゃん探してたんだけど、教室に行っても見つかんないからさっ。めがっさ困っちまったんさっ。ハルにゃんって今、好きな人はいるのかいっ?」
「なっ………!」
なんて事をなんて時に聞くのかこの人はっ!こりゃ天ぷら油にダイナマイトを突っ込んだ挙句にプルトニウムで炒めてみましたって所か、おい。で、ハルヒもハルヒでなぜ押し黙るよ。今朝言ってたばかりだろうが、恋なんて下らないみたいなことを。
「それはっ、その………」
「あたしはいるよっ」
はい………!?声にならない声が漏れた。いや、さっき確認した所だからそれ自体には驚かないが、しかし今ここでハルヒに宣言するという事は、どういう事か。これじゃあ、まるで………
「あたしは、キョンくんが好きっ」
唖然とするハルヒ。頭痛を感じ始めた俺。
そして、今までで一番の晴れやかな笑顔な鶴屋さん。
これじゃあまるで、宣戦布告じゃないか―――!?