<ライトライアングル>






いつも通りの晴れ渡った空の下、いつも通りの通学路を抜けて。これ以上無いほどに健康的な一日の幕開けであるはずのこの瞬間、俺は教室のドアの前で立ちすくんでいた。それは何も、俺が昨日自分で髪を切って失敗してしまったからだとか、ましてや遅刻してしまって怒られるのが嫌だといった理由からじゃない。このカッターシャツを不快に湿らせる嫌な汗の原因はただ一つ、ハルヒに会うのが怖くてしょうがないというだけの話だった。

昨日のこと―――ああ、思い出すだけでも背筋が凍る。あの悪夢の昼休み、鶴屋さんの爆弾発言。

『昨日、キョンくんと一緒に寝たにょろっ。それだけ、言っとこうと思ってさっ』

俺と鶴屋さんの間に生じている深刻かつ理不尽かつある意味滑稽な問題を知らない人間がこの言葉を聞いたら、さて、どんな事を連想するだろうか?答えは判りきっているだろう。健全な高校生たる自分には気軽に口にすることも憚られるような行為を思い起こすに決まっている、その言葉を向けられたのが、例えばハルヒ以外の団員だったとしたら、確かに面倒ではあるがそこまで問題にはならなかっただろう。谷口や国木田、ほか男子生徒一同が相手だったとしても、友人の大人の階段の気の早い一歩目を妬みこそすれ、このご時勢に照らし合わせてみればそう珍しいことでもなかろうと受け止めてくれるに違いない。

しかし―――よりによって相手はハルヒ。昼休みの後はヤケドするような視線、しかも炎ではなく極低温の氷での、を送ってきていたのだが、一晩置いてその感情がどのように発達を遂げたのか。考えるだに恐ろしい。古泉からの連絡は一切無かったから、きっと閉鎖空間を展開して暴れているわけではないのだろう。連絡する暇も無いほど処理に追われている、という可能性も捨てきれないのだが―――だが、考えようによってはそちらの方がマシだったかもしれない。経験したことがある分、まだ平静を保っていられるだろう。この扉を開ければきっと、いつもの席に座っているハルヒの姿が見える。その時、どんな表情をこちらに見せるのか………それとも見せないのか………ああ、考えていても仕方が無い。ホームルーム開始近くになって人通りも更に増して、ドアの前で固まっている俺はさぞ滑稽に映っていることだろう。渋滞を起こすのも嫌だし、ここは男らしくすぱっと―――!

「なにしてんのよキョン、さっきからそんなところで突っ立って」

「うおわっ!?」

右の肩に乗せられた手と、斜め後ろから聞こえる声に思わず身を逸らす。歯に仕込んだスイッチでも押したかと思うような素早さでその声の主を見れば、やはりそこには、

「ハルヒ………いや落ち着け、話し合えば分かり合える。人と獣を分かつ決定的な差は緊密なコミュニケーション技術であってだな………」

「おはよ。なによそれ、さっさと中に入りましょ。岡部に叱られるなんて考えるだけでも嫌だもの」

「ん、ああ、おはよう………?」

………なんだろうこの拍子抜け感。てっきり殺され―――まではいかないまでも、団員が団長に黙って不純異性交遊とは何事よキックもしくはパンチくらいは覚悟していたのだが。がらがらと音を立てて、さっきまで硬く閉じていたドアはあっさりと開かれてしまった。俺の手ではなくハルヒの手で。どういうことだ、昨日はあんなに禍々しいオーラを放っていたというのに。

「どうしたのよ、早く入りなさい。あんたがそこにいたら他の人が入れないでしょ。って言っても、今から駆け込んでくるようなのは遅刻ギリギリの自業自得だけど」

「お、おお、悪い」

「ん」

言われてまた立ち止まっていることに気がついた。人間、想像と現実があまりに異なっていると立ちすくんでしまうものらしい。前をゆくハルヒの背中を追うように自分の席に座る。ハルヒはなにやら機嫌がいいようで、鞄から教科書を出しているだけなのに鼻歌すら聞こえてきている。やっぱり怒ってないのか?さっきはあまりの予想の外れっぷりに愕然としてしまったが、しかし―――これはいい機会なのかもしれない。俺としては、昨日の鶴屋さんの誤解を招く発言に関しての釈明をしておきたい。………なんだか卑屈な自分に嫌気が差すが。

「なあハルヒ」

後ろを向いて声を掛ける。なるべく平静を装っていたいが、この後大爆発する可能性も無きにしも非ず、声が上ずってしまうのは仕方ないと言い訳して。まだ鼻歌を歌いながらカバンをごそごそしていたハルヒは、それを何故だか隠すようにして机の横に掛けて、なによ、とこちらに顔を向ける。

「昨日のことなんだけどな、その………ああ、昨日のってのは、鶴屋さんが昼休みに言ってたことなんだが」

そこで一呼吸。顔色を伺ってみるが、鶴屋さんという言葉にも大して反応は無い。まるでいつもどおりにバカな話をしている時のような。肩透かしを食らっても、それでも渾身の力を込めて釈明をしてみる。

「アレはな、言葉のアヤってやつだ。別にあの言葉で連想できるような事は何もしてない」

「知ってるわよ?」

「は?」

知っていると。それはまあ、話がとても早くて助かるのだが………しかしどういうことなのだろうか。鶴屋さんがハルヒに伝えたということは―――考えにくい。何故なら、昨日の帰り道に鶴屋さんは、あの発言にはちゃんと意図があって、だからハルヒに伝えたと言っていたのだ。それなら自分から冗談だと伝えてしまっては意味が無いだろう。しかし、それでは何故………?ハルヒはそんな俺の悩む顔を見て、何が面白いのかニヤリと笑い、そして口を開いた。

「あんたね、自分のことを冷静に見てみたことはある?」

「なんだそれ、俺と鶴屋さんでは外見で既に釣り合ってないってのか」

鶴屋さんに抱いている感情が色恋方向のソレなのかは今もわからないが、それでも軽く落ち込む。

「違うわよ、要するに―――あんたはあんたが思ってる以上に顔に出る性格って事よ。もしあんたがそんな大それた事したら、間違いなく顔に出るわね。それくらい見逃さないわよ、団長だもの」

むむ、説得力があるような無いような。しかしまあ、説得する必要すら無かったという事なのだから、安心していいだろう。なるほど、それで機嫌が悪いなんて事はなかったわけだ。昨日の態度からして、家に帰って考えてみたらそう結論付けられたということなのだろう。よかったよかった、しばらく平穏な日々を送れそうだ―――。とりあえずは、だが。問題の本質を後回し後回しにしている感があるが、今はどうすることも出来ないし、何より、ハルヒとこうしていつも通りに話す事ができるのが嬉しかったのだ。

またしても昼休み、新たな難題が持ち上がるとも知らずに、その時の俺は単純に喜んでいた。



昼休み。これまでなら谷口国木田ペアと合流してトリオ気取りで弁当を貪っていたのだろうが、今はそうもいかない。なぜならば、鶴屋さんが俺の弁当を作って持ってきてくれているからである。なんと贅沢なことか、異性の、しかも先輩に弁当を作ってもらえるなんてのは運がよくなければありえないような特殊イベントだ。昨日は迎えに来てもらったおかげでクラス男子の恨みの視線を一手に引き受けることになったのだが、今日は屋上で待ち合わせることにしてあるから問題は無い。あえて問題があるといえばハルヒなのだが、あいつは授業が終わったとたんにカバンを持って教室を飛び出していった。ドアを閉めるときに意味ありげにこちらに向けた視線が気になるところだが、まあ考えてもしょうがない。さて、俺も屋上へ向かいますか―――。

「ちょーっと待てよキョンさんよ。これから楽しい楽しいお弁当の時間だってのに、俺たちを置いてどこに行こうってんだ?」

「悪いな、今日は用事が入ってるんだ」

「今日も、だろうが………お前、昨日もそう言って鶴屋さんとメシ食ってただろう?そんなおいしい話はあり得ねえ!あり得たとしても俺がゆるさねえ!キョン、お前は今日はここで俺たちと一緒にメシを食うんだ!」

知ったことかと外に向かおうとすると、谷口は俺を羽交い絞めにしてきた。一体こいつは何がしたいのか。

「お前がどうしても行くっていうならな、俺はこのまんまの状態で昼休みの三十分間を過ごしてやるぜ!」

めちゃくちゃだ。そんなことをしたらお前だって昼を食べられないだろうに、それすら乗り越えて俺の昼のひと時を奪おうというのか。感動すら覚える。俺と谷口は背格好も同じくらいだし、運動系の部活に所属していないという点でも一致している。つまり、体力差はほとんどないと言っていいだろう。このままなら、昼休み中とは行かずともそれなりの時間を浪費させられてしまうに違いない。しかし―――伊達に入学からこれまで一緒にいたわけではない。こいつへの対処法は既に構築済みだ―――!

「おい谷口!窓の外にブルマにツインテールにノースリーブでタイトなスーツを着こなしたOLがいるぞ!」

「何ッ!なんだそのフェチズムの塊!」

谷口の意識が他方に一気に向かう、その一瞬の隙を突いて俺は全速力で逃げ出した。

「ねえねえ、スーツ着てたらブルマもノースリーブも見えないんじゃないの?」

国木田の冷静なツッコミにも気付かず、谷口は窓の外を食い入るように見回して、居るはずのない女性を探していたのだった。



この学校は、年功序列制に従って、下の回から三年、二年、一年の教室が配置されている。年次が上がるごとに教室までの道のりが楽になるのだから文句はないが、しかし今だけに絞ってみれば、朝っぱらから四階まで上ってくるのはそれなりに骨が折れる作業だ―――まあ、そんなことは今は関係ないが。教室を後にして階段へ向かう。谷口のおかげで少し遅れてしまったし、鶴屋さんは先に行ってしまったかもしれない。例えばこの角を曲がって鶴屋さんと偶然会うなんて事は―――、

「おっ、キョンくん偶然だねっ!」

あったよ。リアルは小説よりなんとやら。

「色々あって遅くなったんで、先に行っちゃったかと思ってましたよ」

「にゃははっ、実はここでキョンくんが来るのを待ってただけなんだけどねっ。お姉さん待ちくたびれてお腹と背中がくっつきそうだよっ」

「苦情は谷口が受け付けますから………待たせてすみませんでした。でもそれなら先に行っててくれても良かったのに」

「わかってないなーキョンくんは、こういうのがいいんじゃないかっ。まあ、他にもちょっと考えがあったんだけどね」

考え?と聞き返す前に鶴屋さんは階段を上り始めてしまった。どうせ昼休みはまだ残っているのだから、そんなに気を急く事もないだろう。後ろを着いて行く―――って、なんだか最近人の後ろばかり着いて歩いている気がするな。自主性を持ちたいものだ。性格はそんな簡単に変わるもんでもないけれど。と、十秒ほどそんな事を思っていると、屋上に続くドアの前に着いた。もともと一年の教室は四階だから近いのは当たり前だが。せめてドアを開けるぐらいは俺が、と鶴屋さんの前に出てドアノブを回す。今日も朝からいい天気だったから、きっと外に出れば気持ちいいだろうな………。

がちっ。

「あれ………?何だ、鍵がかかってる………?」

二度三度と回してみてもがちゃがちゃと悩ましい金属音が響くだけ。まさか逆方向に回すのかと思ってみたが、当然そうでもない。もしかしたらこの間屋上の鍵が開いていたのはたまたまで、いつもは鍵がかかっているのかもしれない。

「んふふっ、やっぱりそうきたかっ!」

「………?鶴屋さん、心当たりでもあるんですか?先生が鍵しめてるのを見たとか」

鶴屋さんは笑って首を振る。とても楽しそうな顔をしているのだが、俺には何の事だかさっぱりだ。まあ、鶴屋さんが鍵を持っているなんて事は無いようだし、当然俺だって。という事はここで食べるのはあきらめないといけないって事だな。教室に戻るわけにもいかないし、中庭で食べることにしようか―――そう思って鶴屋さんに話しかけようとしたのだが、その寸前。

「ハルにゃーん!開けて欲しいな〜っ!」

「え?」

ドアを隔てた屋上に向かって言っているような、そんな風に鶴屋さんは、不思議なことを言い出した。はるにゃん………ってのは当然ハルヒの事で、しかしなぜここでその名前が出るのか。そもそもあいつは昼休みが始まったとたんに教室を出て行ったはず―――となると、ここに居る可能性もあるのか。しかしそれなら鍵がかかっている説明がつかない。そもそもこのドア、内側からしか鍵を掛けられないのだから。そんな俺の必死の思索も空しく、目の前のドアが今度はいとも簡単に開かれる。しかも内側から押されて、だ。そしてそこにいるのは当然、

「ハルヒ………何してんだお前」

「それはこっちのセリフよね。あんた、あたしを差し置いてなに二人っきりでお昼食べようとしてるのよ」

「んあ………?」

ちょっと待て、なんだこの反応。まるでハルヒが俺と一緒に昼ごはんを食べたいと言っている様な………いや、そうとしか聞こえなかったのだが、思い込みが激しい男は嫌われるから熟考するとして………しかしやはりそう聞こえた。しかもなんの恥じらいもなく言ってのけた。パンの枚数を数えない人くらいにさらっと。

「ハルにゃんならきっとこうすると思ってたよっ。これで条件は同じって事でいいかなっ」

問いかけるでもなく鶴屋さんが呟き、ハルヒもそれに答えるように笑う。昨日から言っている条件だとかなんだとか、俺には良く分からないが、二人には分かっているということだろう。笑いあっているのはとても微笑ましい光景なのだが、二人の後ろには竜と虎がお互いを威嚇しあっているビジョンが見える。笑いあいながら、背後での睨みあいは消して手を抜かず、二人は徐々にドアから離れた場所へ移る。そして二人は、触れ合いそうな絶妙な距離をとりながら、それぞれが持ってきたカバンに手を伸ばし、それぞれ二つの包を取り出して、そして鶴屋さんの取り出した布状のものを地面に引いて―――そして、その上に座った。………ん?座った?

「じゃ、お昼にしようか、キョンくん、ハルにゃん」

「そうね、お昼にしましょう、キョン、鶴屋さん」

「………………………」

二人に指し示された場所に座る。丁度正三角形を作るような形で。いそいそと弁当箱の包みを開け始める二人。なぜか二人分の弁当を持ってきているハルヒに、なぜか嬉しそうな鶴屋さん。どう考えても雲行きが怪しいこの状況にも、相変わらず空は無駄に晴れていた。せめて食事時くらいは、場が荒れませんように―――

「キョン、あんた鶴屋さんの家に泊まってるわよね?」

―――どうか、荒れませんように。無理か。
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