聞き馴れた音を立てて、バスは走り去って行った。

ちょっとした感傷に浸りながらバス停を後にする。学園に通っていた頃は、平日の昼間に街中を歩いているなんて考えられなかった。新都に来るのは決まって放課後か週末で、目の前の景色はそのどちらとも違う。人通りはいつもよりは少なくて、だからといって活気が無いわけでもない。駅へと急ぐサラリーマンや、買い物に来たのであろうおばさま方。そして、その中にあって活気の中心になっているのは、多分俺と同じ身分の人達。これから四年間で慣れてしまうであろう情景を見ながら、俺も目的地へと歩き始める。

特に大きな事件も無い、平和な街並み。すれ違う人たちは一様に楽しそうで、明るくて、でも自分は今ひとつパッとしないままで。目標はあるけれど、それは直ぐに到達できるような場所には無くて、だからって立ち止まっていることは、周り―――特に自称姉、大きいほうの―――が許してくれなかったわけで。形の上では、今日俺は新しい一歩を踏み出すことになったのだ。数分の間歩いて、目の前に、俺の新しい舞台が姿を現した。

「さて、それじゃあ行くとしますか―――」

最初からドイツ語なのは気が重いけれど。兎に角、俺はその仰々しい門を通り抜け、まだ見ぬ新世界へと踏み込んだのだった。



「それでは、また来週」

やる気がイマイチ感じられない担当教諭の、これまたやる気の感じられない授業説明が終ると同時に、授業の終了を知らせるブザーが鳴り響いた。大学の授業ってのはこんな気の抜けた感じでいいのか………?いやいや、自主性が求められるという事か。本格的な授業は来週から始まるようで、買って間もない携帯電話にテキストの販売日時をメモし、教室を出た。

廊下に出れば、同じく授業を終わらせた人たちが、同じ方向に向かって歩いていく。今日は二限からだから、今は丁度昼食の時間なのだ。多分食堂に向かっているんだろう。早く行かないと席が無くなってしまうというのはどこでも同じなんだろうか。俺はそこは余裕を持って動けるからいいんだけど………。

「とりあえず人の少ないところを探すか」

弁当持ちだからこその選択肢だ。学校の見取り図はあらかた頭の中に入っているので、とはいっても構造解析とかそんなんじゃなく単純に生徒手帳のマップを見ただけなんだが、空いていそうなベンチに当たりを付ける。教室に近くない方がいいし、かといってあまりここから遠いのも良くない。となると………この辺りだろうか。決めたら即行動だ。先に取られてしまっては元も子もないのだから。ざわざわという雑踏の中を、流れに逆らって進む。すれ違いざまに人を観察すると、新入生とそうでない人が簡単に見分けられて結構面白い。キョロキョロしてるのは大体新入生だろう。敷地の狭いこの大学では、つい二時間ほど前にいた新都の、控えめな静けさとは真逆の騒々しさに中てられてしまう。

生徒会室という、喧騒から隔離された場所で食事をとれたあの頃。いかに恵まれていたかということがわかるという物だ。今度一成に会った時に礼でも言ったら、あいつはどんな顔をするだろうか。………っと、確かこの辺りにベンチがあった筈………。そう思って角を曲がろうとすると、その先から話し声が聞こえてきた。

「な?ホラ、ちょっとでいいから見てってくれよ。ウチは雰囲気もいいからさ」

「いや、もうアタシは決めてますから」

「まあそう言わずにさあ」

片方は、まあなんというか明るい感じの、悪く言えば軽そうな口調の男の声。もう一方は女性の声で、丁寧に答えてはいるけれどどこか棘を含んでいる感じだ。

「そこに部室棟あるんだよね。見ていくだけでいいから」

「だから………」

部活かサークルの勧誘だろう。勝手な印象から判断すれば多分サークルだと思うけれど、こういうのは引くタイミングを失うと逃げられなくなってしまう物だと相場が決まっている。長引くかもしれないし、他の場所を探した方がいいかもしれないな―――とその時。

「………っから、ちょっと来いって言ってんでしょ?すぐ済むっての」

「ちょっと、この………!」

どうにも雲行きが怪しい。角から顔を出して見てみれば、そこではいかにもイマドキ大学生という感じの男が、女の人の―――こちらからはよく顔が見えないが―――手を引っ張り、半ば無理やりに連れて行こうとしている所だった。アレはちょっとやり過ぎじゃないだろうか。あんな状態で連れて行かれたって、その後楽しくサークル活動、なんて風にならないのは目に見えている。抵抗して中々動こうとしない相手に苛立ったんだろう、男はさっきよりも強く手を引く。

「痛っ………!」

………もう見ていられない。いくら勧誘だって言っても限度って物があるだろう、ここで出て行っても誰も文句は言うまい―――!俺は勢い良くその場から飛び出し、そして男に声を―――

「おいっ、お前―――」




「いい加減にっ………しろっ!」




ガスンッ!鈍い音と共に男の体が沈む。俺は飛び出した姿勢で固まったままだ。おいおい、もしかして女の側が男を殴り倒したのか………?なんだか気の強い女性にばかり縁がある気がする俺の人生。関わり合いにならない方がいいかも………。そんな考えから、多少のおっかなびっくり感を醸し出しつつその女性の顔を見る………と。それは、もうかれこれ三年間も見慣れた顔で、かつ、どうしてこんな所で、という顔でもあった。




「―――あれ、衛宮じゃないか」

「―――え、美綴………?」





「はは、そうかそうか。衛宮もこの大学だったなんて、これはびっくりだね」

「俺だって驚いたぞ………」

からからと笑う美綴。しかし俺はさっきの光景が目に焼きついて離れません。いくらなんでも勧誘の人をいきなり殴り倒すなんて、常識外れもいい所ではないだろうか。ちなみに昏倒した男性は二人でもってベンチに寝かせておいて、俺たちは空いた教室に入っている。俺にもう少し魔術の才能があれば記憶の操作くらいはできたんだろうが、強化投影一辺倒の俺にはそんな芸当は無理だった。

「いやあ、あの人も運が悪かったね。アタシもいつもなら軽くいなしてる所なんだけどさあ、今日はちょっと虫の居所が悪かったっていうか」

「確かに男の方にも非はあるからうだうだ言わないけどな、相手によっちゃあ大変なことになるんだから気を付けてくれよ」

「はいはい、今後一切こんな事はしないって誓うよ」

これだけ笑顔で清々しく断言されてしまうと納得するしかないじゃないか。助けに入ろうとして立ち尽くしていた俺との対比で男らしさが際立っているような気もするし。二人して椅子に座る。

「ところで衛宮は昼どうするの?さっきのごたごたで買いに行くの忘れてたんだけど」

「いや、俺は弁当だから………なんだその”さすが主夫”って表情は」

「思ってないよそんな事。それに間桐の愛妻弁当かもしれないじゃない?」

チェシャ猫のように、とでも形容しようか、ニヤリとそんな事を言う。しかし残念ながらその期待には応えられない。年度始めとは言え大学受験が目前に控えた学年で、しかも部活の主将なんて大役を仰せつかった桜だ。それに加えて弁当を作る負担などは掛けられない。慎二も………死んでしまって、爺さんもいつの間にかいなくなっていた。間桐の家を支えていくのは桜一人で、最近ではうちに来る回数も少し減っている。

「ふーん………間桐も色々と大変な年頃か。じゃあこの弁当、もらっていい?」

「………会話のキャッチボールが出来てないぞ美綴。変化球過ぎる」

「いやいや、ちゃんと論理的な繋がりがあるじゃないか。つまり、間桐作のお弁当だったら食べられない、ってことさ」

「む。最近の桜の弁当は俺よりも美味いんだぞ?その発言には頷けない」

「そういう事じゃないんだけどね………全く、人の好意に無頓着というか鈍感というか。ん、この玉子焼き、学園の時よりも美味しくなってる」

それはどうも………って、俺の了承を得る前に食べていらっしゃる。学園の時にも似たような事をしていたから気にしないが、その時は物々交換だったわけで、このままでは俺の食べるものが無くなってしまうじゃないか。それは避けたい事態だ。なんせ俺はこの後、一限置いて四限目に授業が待っているのだから。余計な出費は無くしたい所だし。

しかし、目の前でこうも美味そうに食べてもらえば悪い気がしないのも事実。目下半分くらいが既に美綴の腹の中に消えているのだが、止める気にもならないし。一食くらい抜いても問題はないだろう。今日はバイトも休みだしな。そう思い直したとたん、なんだか不機嫌そうな顔になる美綴。

「………そういう所は変わってないね。衛宮、アンタ損な性格してるって言われない?っていうかアタシが結構言ってる気がするけど」

「食べた本人が言うのもどうかと思うけどな………損か得かなんて結局は個人の感覚なんだから。俺がいいと思ったらそうするさ」

「その結果まわりがどう思うかも考えずに?いいかい衛宮。人ってのはね、大体が因果応報をどこかでは信じてるし、望んでる物なんだよ。それが自分の事であれ、他人のことであれ、ね。だから”自分が犠牲になっていれば他人は幸せ”なんてのは嘘っぱちだ。その時幸せを感じてるのは自分だけかもしれないだろう?」

まあ、そりゃあ。ここまでの二十年にちょっと満たないくらいの人生の中で、そんな事を考えることもあるけれど。それでも変えられない物だってあるのだ。それに、

「弁当を一食抜くくらいで大袈裟だろう?」

「まあね。だから、スケールにあった応報ってものをあげようっていうのさ。ほら、あーん」

………結局今回は、因果に見合った―――もしくはそれ以上か―――のリターンを得ることになったのだった。確かに、玉子焼きはいつもよりも美味しかったと思う。



「最後の授業も同じだとは思わなかったな」

「学部は違うけど、一般教養科目だからね。こういうこともあるさ」

俺は工学部、美綴は文学部。体育系かと思っていた、と言ったら複雑な顔をされた。四限目の授業を終えた俺たちは、新入生らしく帰りのバスに乗り遅れ、それなら歩いていこう、という美綴の提案により徒歩で帰っている。いつもは自転車だったりバスだったりで歩くことも少ない道で、いつになく新鮮に見える。隣に美綴というイレギュラーが歩いているのも大きいだろうが。

「そういえば、衛宮は第二外国語は何を取ったんだい?中国語とか?」

「いや、ドイツ語。受験勉強の合間に遠坂にちょくちょく教えてもらってたから」

今は大英帝国で暴れているだろうレッドデモンに思いを馳せる。英語を教えるのにも熱を入れていたし、もしかしたら俺を向こうに連れて行ってコキ使おうと思っていたのかもしれない考えるだに恐ろしい、橋から落とされる、なんて童謡みたいな展開が待っていないとも限らないのだから。

「ふーん。そういえば二年の終りくらいから妙に仲良かったよねえ。付き合ってた、ってワケじゃないんだろうけど」

そりゃそうだ。そもそも遠坂なんかと付き合おうものなら学校中の怨嗟の念を一心に受け止める事請け合いだからな、下手したら反英霊になりかねない。それに………まあ、あの頃は気持ちの整理が付いていなかった、というのもあるか。駄目だ、この事を思い出すと妙に湿っぽくなってしまう。話を変えよう。

「で、美綴は何取ったんだ?」

「ん………アタシはフランス語。ほら、なんか優雅なイメージがあるじゃない。武道を嗜みながら仏語もペラペラ、なんてある種の完全体だろ?な?」

「サークルの勧誘を殴り倒すようなヤツが優雅とは思えないけど」

あと揚げ足を取られたからって直ぐに手を出すやつも。踏まれた足が痛い。

「んー、そうだね。積もる話もあるし、そこ入ってかない?弁当の礼におごっちゃる」

そう言って美綴は、返事を聞くより先に俺の手を取って数メートル先にあった喫茶店に向かって歩き出した。なんとなく、男より女に好かれるタイプだよなあ、と思ったのは内緒だ。



「アイス二つ」

「かしこまりました」

「………………………」

俺に何も聞かずに注文しやがった。そりゃあこの年でオレンジジュースを頼むなんて事はしないけれど。

「なあ美綴、バレンタインに貰ったチョコレートの数って思い出せるか?」

「はあ?覚えてないよそんなの………っていうかどうして女の私にそれを聞くかな」

やっぱりだ。ちなみに俺は思い出せる。藤ねえと出会ってからの年数分、桜がウチに来るようになってからの年数分。あと遠坂が一つ、イリヤも一つ。これは推測だが、多分全部義理だ。

学園の時、弓道部に所属していた時の事を思い出す。色々あって俺は最後までやりきることができなかったのだけれど、その期間で一番会話をしていた異性が美綴だったと思う。………もちろん大型猛獣は女性のカウントには入っていない。例えば大会直前―――、部内が緊張感で張り詰めていて今にも破裂しそうになっていた時、一年生だったのに部を引っ張っていた。夏の合宿で料理を一手に引き受け、その大雑把な調理法でみんなの度肝を抜き、その味で二度目の驚きを味合わせていたのも。いわゆるアネゴ肌というやつなんだろう。これを言ったらまた叩かれるだろうから口には出さない。何も言わない俺に呆れたのか、結局追求することなく、美綴は話を続けた。

「はあ………まあいいけどね。そういえば衛宮はどうして大学に?てっきり就職するもんだとばっかり思ってたけど」

「ん………」

「夢を追って………とかモラトリアムを求めて………とか。色々あるでしょうが」

夢―――俺の夢っていったら勿論、あの時から変わっていない………けれど、進学することがその実現に繋がるのかどうかは、正直わからない。でも、働くっていうのもどこか違う気がして。考えてみれば消極的な理由しか見つからない。

「は………答えられない、って?イマドキの大学生ってタマじゃないでしょうがアンタは。ちょっと腑抜けてるんじゃないの?」

真顔でそんな事を言う。そりゃ自分でも薄々は感じていたのだけど、いきなりそう言われて喜ぶやつはいない。

「何だよ、久しぶりに会ってちょっと話しただけでそんな事わかるってのか?」

「はっ、かれこれ三年以上も腐れ縁を続けてるんだ。気付かない方がおかしいっての。衛宮、あんた………二年の冬に何かあっただろう?」

………いきなり、そこまで行くのか。

あの―――期間から言えば決して長くない、きっとこれから続いていく俺の人生にしてみれば一冊の小説を読み終えるのと大して変わりのない、数日間。あの、今も脳裏に残る鮮やかな幻影―――得たものも失った物も、同じくらいに大きかった、あの日々を。努めて表情には出さないようにしたつもりだったのだけれど、それは失敗に終わったらしい。

「わかるさ、それ位は。なんてったって、同じ釜の飯を食った仲なんだから、私たちはさ」

「正しくはカレーだったけどな」

「ああ、あの時のは特に上手く出来たっけな………まあそれは置いておいて、さ。あの辺りからあんたの雰囲気がちょっと違ってたのさ。なんて言うか―――張り詰めてる、って言うのかな、ああいうのは。遠坂と仲良くなってたのも、だけど」

運ばれてきたコーヒーを一口含んで、意地の悪い笑顔を見せる。こういう所が無ければもうすこし異性のとっつきも良くなるだろうし、遠坂との勝負も有利に進められただろうに。あんまりに図星な物だから、少しくらいは反論を試みる。

「勘違いじゃないか?見方が変われば他人の印象だって変わるだろうし、遠坂と仲良くなったのだって………まあ、偶々だったかも知れないだろ」

「は、遠坂と偶々£良くなる、だって?百歩譲ってそれが有り得たとして、果たしてあの♂桃竄ニ勉強する、とか、屋上で一緒に昼飯を食べる、なんて事が偶々≠ナきるもんかね」

「う、知ってたのか………」

別にただ昼食を一緒にとっていただけだったんだが、美綴が口の堅いヤツでよかったと思う。もし言い触らされた日には俺はあの学校で生きていけなかっただろう。

「ここからは完全に推論だけど―――衛宮と遠坂が関係した、何か、客観的な規模は兎も角として、大きな事があったんだろう?そして―――これも想像でしかないけど、ほとんど確信に近い。それは短期間で解決してて、でもあんたはそれを引き摺ってた………違う?」

「………………………」

驚いた。細かい部分への言及は無いにせよ、全部正解と言っていい。

「美綴、お前は探偵か何かになった方がいいんじゃないか」

「はは、正解か。だろうね、何かが起こってる最中に何度も顔を合わせて気付かないほど鈍感な自信は無いからね。で、ここからが本題よ。あんたはその何かが終わった後も張り詰めた空気を纏ってた―――それこそ、弓を射る時の雰囲気がいつも続いてるみたいな」

言葉に頷いて、先を促す。

「でも今あんたにはそれが無い―――っていうか、言っちゃ悪いけど腑抜けてるよ」

「む、そんな事は………」

「いいや、腑抜けてるね。前のアンタだったら、アタシがあの男を殴る前に飛び出してきてる筈だよ。あんたは感情には鈍感なくせに、そういう空気には敏感だったから」

買いかぶり過ぎだ………と言いたい所だけれど、確かにそうかもしれない。結果として、あの男は美綴に乱暴な態度に出た。俺がもう少し早くその場を立ち去っていたら、そして勧誘にあっていたのが美綴じゃない女性だったとしたら………大変なことになっていたかもしれないのだ。もう一口コーヒーを口にする。と思うと、今度は目を逸らしたり、横を通った店員を目で追ったり。言うべきか言うまいか迷っているような、急に美綴らしくない。

「でさー、腑抜けた原因………遠坂じゃないかなー、って思うわけよ」

「は?」

どうしてそこでその名前が出てくるのか―――多分ぽかんとしているだろう俺の顔を見て、控えめな口調で続ける。

「あのさ、あんた遠坂のこと好きだったりはしない?」

「はああ?」

「いや、ああと………だってそれくらいしか思いつかないじゃないか。少なくとも卒業までは衛宮の雰囲気はああだったんだぞ?それで大きく変わった事って言ったら―――それくらいしか」

急に口調に自信が無さそうになる………が、確かにそういう考え方もあるんだろうか。

俺が遠坂を好きだったというのは………そりゃあ当然好きだ。だけどそれが愛だとかそんな言葉に置き換えられる感情だとは思えない。家族愛となら言えるかもしれないが。勿論あいつに頼まれれば多少危険な事だってするけれど、それはあの、今も心の真ん中に居座っているあの少女に対して抱いていた感情とは違う物だ。それは断言できる。美綴の読みは、そこを間違えている。

だけど―――少なくとも、共にあの戦争を駆け抜けた戦友が身近から居なくなってしまったという事。後始末が終わったあとも何かと教えてくれた、それは魔術だったり学校の勉強だったりだけど、彼女がいなくなったという事は―――俺にとっては、大きいことだったのかもしれない。今や聖杯戦争の生き残りは俺と遠坂を除けばイリヤだけで、最近のイリヤはすっかり普通の女の子を満喫しているのだから。

とすると………どうやら、原因はどうやら美綴の言う通りらしい。

「そうか………そうかぁ」

「あ、やっぱりそうだった?」

「ああ、確かに遠坂が居なくなったってのは、そうかも」

「ん………」

要するに、遅まきながら緊張の糸が切れたということなんだろう。遠坂と一緒にいれば良くも悪くも気が抜けなかったし………そういえば、ヘミングウェイの小説にもそんな人がいたっけ。確か名前はクレブスだったか、戦争から帰ってきたとたんに無気力になってしまう青年だった。

………しかし、続いていたもやもやの原因が分かってすっきりしているっていうのに、それを気付かせた当人は全然嬉しそうじゃないのはどうしてだろうか。

「じゃあ早速、イギリスに電話しないとね。美大だっけ?」

「ん?遠坂なら確かにそうだけど………なんでさ」

また話が飛んでいる。変化球はやめろって言ったはずなんだが。

「なんでも何も………ほら、好きなんだろ?遠坂の事。それならそれで解決するじゃないか」

「いや、だから………確かに遠坂のことは好きだけど、そういう好きじゃないって。なんていうか………親友というか………」

戦友というか。

「無意識に引っ張ってもらってたのが無くなったから、弛んでるんだと思う。だから遠坂にどうしたから直るとか、そういうんじゃ無いんだ」

つまりはそういう事。あの少女や遠坂に会う前の俺だったら、こんな事にはならなかったんだろう。思えば、それまでは周囲の人は―――藤ねえや桜は、家みたいな物で、包み込んでくれる人達だったし、だからこそ俺はみんなを守ろうと思っていたんだった。でも、戦争が始まって、隣に立って、時には背中を合わせて戦うような、そして何も知らない俺を支え、教え、導いてくれるような、そんな関係の人たちは初めてだったから。無意識のうちに、背中を押してくれる人に甘えていたんだろう。それに、好きな人がいなくなって駄目になるのなら―――俺はとっくの昔に駄目になっている筈なんだから。

「へ………?あ、ああ、そうなんだ。あはははは」

どこがツボだったのか、急に笑い始める美綴。俺の様子がおかしいといっている割に、強く出たと思ったら控えめになったり、かと思えば笑い出したり、お前の様子もちょっとおかしいぞ、と思う。ここに入るまでは普通だったと思ったんだけどな………なにか変な話でもしてしまっただろうか。

や、美綴は明るく笑っているのが一番似合うと思うのだけど。

「なんだ、そういうのじゃ無かったのか。確かにあんたにゃそういうのは似合わないね」

「失礼な………俺をなんだと思ってるんだよ美綴」

「まあまあ、悪かったって衛宮、あははは」

「全然悪いと思ってないだろう………」

そりゃ俺は色恋沙汰なんて得意じゃないけれど、ここまで笑う物かよ。ちょっと傷ついたぞ。




「ははは。ああそうか。それなら仕方ないな。じゃあ今度は、アタシが引っ張ってってやるよ」




「………?いや、お前何を言って………」

「何って衛宮、あんたアタシと遠坂の関係を知らないわけじゃないだろう?ライバルなんだ、ライバル。勉強じゃあ敵わないけど………でもアイツができたことがアタシにできないなんてあっちゃいけないわけだよ。アンタとアタシの大学が一緒で、しかもアンタの調子が悪いのは遠坂のせいと来てる。こうなればアタシがなんとかするしか無いでしょう。それとも何か?精々一年と少しくらいしか付き合いのない遠坂に出来て、アタシじゃ役者が不足してるって言うのか?」

ああ、これこそいつもの美綴だ―――こう、注文を勝手に頼んだりする強引さというか。明るくなるのは見ていて清々しいんだけど、こう胸に残る一抹の不安はなんなのか。やっぱりライバルだけあって遠坂に通じるものがある。

「具体的にどうするっていうのさ」

「それはこれから考えるさ。時間は四年もあるんだ、そのうちいい案も浮かぶだろ。さ、そうと決まれば長居しても意味ないね。出ようぜ、衛宮」

そう言って、俺が立つのを待たずに会計に向かう美綴。そういえば、とふと思った。引っ張られるっていうのは、尻に敷かれるってのと限りなく近いんじゃないだろうか、と。



お風呂から出て、髪を拭きながら自分の部屋へ。他の子と比べて特に長いというわけでもないけれど、湿気が残っているままでいるのはやっぱり気持ちが悪い。がしがしとタオルを滑らせる。部屋の鏡を覗けば、薄手の寝巻きでラインの浮き上がった自分の体が見える。最近はブランクがあるとはいえそれなりに締まっているのは、やっぱり筋肉の体に占める割合が多少―――本当に多少、多いからだろうか。あのライバル、今は海の向こうに居る唯我独尊のアイツに明確に勝てた事の一つが、スタイルだった。体育の時間に一緒に着替えている時のアイツの苦々しい顔つきといったら、日頃負かされていることなんかどうでもよくなってしまう程だった。………大抵はその後、理不尽かつ巧妙な復讐があったりしたのだけど。

喫茶店での会話で話題に上った友人のことを思い出していると、携帯から着信音が流れた。ああ、そういえば衛宮の番号を聞くの忘れてたな―――と思いながら手に取り、画面を見る。

「は………なんだい、珍しい」

『ええ、お久しぶりね、美綴さん。元気でやってる?』

噂をすれば………というやつか。元気でやっているようで何より。

「ああ、そっちも大丈夫そうだな。学校の方はどうなんだ?」

『順調よ………って言いたいところだけど。あなたみたいなのが一人いて、まあ楽しくやらせてもらってるわ。あ、でも性格はあんたより間違いなく悪いわね、アイツ』

そう言いながらも口調は軽い。電話の向こうで笑っているのが見えるようだ。心配することは無いみたい。まあ、最初から分かっていたけど。

『そういうあなたはどうなの?地元の大学だったはずよね』

「こっちは始まったばかりだからなんとも………ああ、そういえば衛宮が同じ大学だった」

驚くだろうか、それとも悔しがる方が先か。

『あれ、知らなかったの?あたしはどっちからも聞いてたんだけど』

「(なんだそりゃ………)」

肩透かしを喰らった気分。一本取れるかと思ったけど………偶然に頼っちゃいけないって事か。大丈夫、これから四年あるのだから。

『まあ良かったじゃない、一緒になれて。で、どうなのよ。士郎とは』

「どうも何も………どういう事だよそれは」

『わからない?ふふ、だって綾子、士郎の事結構気に入ってたでしょ?』

「なっ………!」

何て事を言っているのかこいつは………!大体これじゃあ立場が逆だ、衛宮の事を知らせて驚かせてやろうと思ってたのに………そうだ、大体、私は………

「だっ、大体アタシは年上が好きなんだよ!衛宮なんてオコサマっぽくてダメダメ………」

『あら?私は「好き」なんて一言も言っていませんけれど』

うふふ、なんてわざとらしい声が聞こえる。ほっ、本当に意地の悪いやつだなコイツは………!それに、鏡に映った自分の顔、どうしてあんなに赤いのか………!

『それに………美綴さん、あなたよりも、衛宮君はずっと大人だと思いますわ………これ以上なく客観的な事実に基づいた物理的な意味で』

「………………何………?遠坂、それはどういう………」

『ふふ、ご想像にお任せするわ。あ、そろそろ切るわね綾子、進展があったら電話しなさい。それじゃ』

ブツン。音を立てて電話は一方的に切られた。しかし、頭の中はそれどころじゃない。

衛宮が、私より、大人。しかも物理的な意味で。理由は分からないけれど、意味もイマイチわからない―――多分わからないけれど―――腹が立つ。無性に。

「衛宮………次ぎにあったら徹底的に問い詰めてやる………」

熱を持った携帯を折りたたみながら、そう誓った。
BACK